政宗が南奥羽で死闘を繰り広げている間、京都は穏やかで華やかな空気が漂っている。 まさに義満の人生絶好頂と言える時節が到来し、奥州の仕置きなど眼中にない。
義満は明国との貿易を具体的に進めていた。応永七年のいわゆる「応永の乱」(政宗から見れば第一次政宗の乱)で大内を討つまで隣国との貿易は実現できなかった。
二十数年前に幕府が明の太祖に倭寇の捕虜百五十人を送還するのを口実に使者を送ったのだが、太祖は 「義満は天皇の臣下であり、人臣に外交なし」 と公式の使者として認めなかった。 しかしその太祖も死に恵帝が即位し年号も建文と改まった。 義満はその間に朝廷の最高権威である太政大臣を辞し出家し道義と称している。 断られた時は征夷第将軍であり、それは天皇の家臣に間違いなかったが今はそれを超越している。
また実質的な私貿易の旨みにあり付いていた大内を平定した後は抵抗する者はいない。海外貿易という実利と日本国王と名乗る冥利がここにあった。
この延長に王位簒奪計画が静かに着々と進行していた。また京都では「百王伝説」の噂で持ちきりであった。 応永八年二月二十九日に土御門内裏が炎上し、神器だけは廷臣が持ち出したものの歴代の文書は焼失してしまった。 義満は天皇を室町第に迎えて皇居にした。日常の召し物はもとより衣類その他一切を義満の厄介になる上に、新内裏の造営も幕府の力を頼らなければならない。
室町第の廊下で義満と広橋仲子がすれ違う。 仲子は政宗の妻・咲々の姉であり後円融天皇の母でもある。 「政宗を見捨てるおつもりか」 義満は会釈して通り過ぎるつもりであった。 「利用価値がなくなれば見捨てるかえ?」 義満の顔が曇る。南奥羽の戦況を知っているようである。
何はともあれ義満の御内書が数日後に鎌倉府に届く。 満兼は引き続き政宗追討をするように命じた。連絡の遅れを口実に貴奴の首を盗ろうとしたのだ。
前線の上杉禅秀は暗い気持ちで幕府の命に従った。 「なに、あの政宗をお咎めなしの所領安堵と申すのか」 満兼の憤慨は頂点を極める。
政宗の乱は鎌倉府が二十八万もの軍勢を催促した割りに幕府の肝いりで強制的に政宗・所領安堵という結論に相成った。 談合は禅秀と政宗が出羽国の高畠の郊外である。
これで鎌倉府の奥州経営は実質的に断念し伊達が奥州での実力者の風格を備えてゆく。 政宗はこの政宗の乱が解決して五年後に没する。
一世を風靡した独眼竜政宗ほどではないにしろ、波乱に飛んだ円孝政宗の活躍がその後の独眼竜の登場に寄与したのは間違いない歴史の事実である。
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