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異聞 政宗記(いぶん まさむねき) 作者:GART

第11回   五章 政宗の乱(★ー)
「おのれ政宗め」
満兼の怒りは頂点に達した。半世紀に及ぶ鎌倉府はいつも次期将軍を狙える座にいた。
彼の無謀な野心が災いしたのだが、本人はその非を改めない。
幕府に謝罪する形で改めて謀反どころか忠誠を誓って事なきを得たがむろん本心ではない。

満兼は政宗追討令を発令し、上杉禅秀を頭に追討軍を徴集した。

この動きに京都では、
「鎌倉は乱心したのでは?!」
と噂が飛び交った。
たとえ名目は関東・奥州管領であったとしても、昨年の合戦の謝罪した直後の殊勲賞である政宗を宿敵として追討令を発するのは幕府に対するあて付けに取れるではないか・・・。

上杉禅秀は五万の兵を持って南奥羽に到着し、結城満朝や稲村公方・篠川公方と合流した。

「政宗追討令か・・・」
伊達政宗は嫌な顔をした。
それも、そのはずである。

元々、昨年の合戦の口火を切ったのは幕府に忠誠心を見せるためであり、その理由は南奥羽の所領安堵にあった。
それを鎌倉府が禅秀を押し立てて攻め昇って来たのでは本末転倒である。
「兵を鎌倉に戻すように」
政宗は義満に頼んだが、返事はない。既に日本一の実力者になった男には南奥羽の情勢などは眼中にはなかった。

義満の関心は、なんと実子を天皇にする事である。
この世紀の瞬間が着々と中央では進んでいた。
が同時に水面下では反義満勢力は異様に増えつつあったのを義満は知らない。

ともかく応永八年は梁川を挟んで伊達の一万と鎌倉勢の六万が対峙し両者睨みあいの末、これと言った両者衝突もなく軍を引き返した。

たとえ大軍であっても一度の戦いで命運を掛けて闘うのは危険である。
禅秀は政宗の布陣をとくと研究して鎌倉の帰路についた。

翌年の応永九年五月は、政宗も最期の時が来たと観念した。
結城満朝に軍勢を催促し、関東一円はむろん奥州に政宗追討を発し軍勢を集めたのである。

その数なんと二十八万。
政宗は義満に救援を求めるものの返答なく、後ろ盾のない居城・赤館でのろう城戦をよぎなくさせられた。
阿武隈一帯を旗指物が覆い尽し、伊達滅亡へと一歩近づいてゆく。  
   


館から剃髪した入道政宗は、淡々と鎌倉側の軍勢を眼下に見下ろす。
「皆、多勢に無勢、心して戦い伊達の名を汚すまいて」
政宗を各将帥に鼓舞して回る。
「女、子供は高畑と米沢に逃がし、男だけでこの館に立て篭もり勝負いどまん」

包囲初日は政宗の一族である長倉入道の作戦が効を奏し、上杉禅秀の尖兵は傾斜地で苦戦、立ち往生の末に意外な被害を出す。

この合戦に機嫌よくした政宗は和歌を残す。

二度の弓箭の花ハ是かとよ
 やちよノ橘千世の梅かえ

鎌倉府の戦いは夜襲も行われたが、用心深い政宗の指示と馬策にはばまれて思うようには戦えない。

二日目は結城満朝の精鋭を先頭に鎌倉勢が乗り込む。南奥羽の国人衆は傍目には鎌倉府に忠誠を誓っているが腹の中は疑わしい。
いっそ入道政宗を逃がさず赤館で殲滅させたいのが禅秀の本心であった。

政宗は乏しい兵糧と弓を見比べながら戦の展開を見届けている。
この屋敷(西山城)と心中する気はもうとうない。出来るだけ大軍を引き付け困らせるのが狙いである。
むしろ赤館を脱出し出羽で体勢を整え持久戦に持っていくつもりであった。

三日目の夜、かねてからの打ち合わせとおり館に自ら火を放ち、時の声を上げて大軍に討って出た。

一斉に木戸を開き追討先陣の山本兵衛五郎が五百騎を急襲。
次に二陣である矢田七郎の七百騎を伊達の長倉入道の三千が突く。
矢田勢は大軍という油断から酒を飲んで寝入っていた時の鬨声に驚愕した。
しかし追討側の忍兵部の千人が桑折赤館の搦め手から侵入し、城兵の気後れがはなはなしくなり、白い布で顔を覆った政宗ら側近七十八騎が出羽に向かって逃走する。

「白い頭巾の政宗の首をはねよ!」

禅秀は結城満朝の軍勢に下知をとばす。禅秀も落城には数日かかると踏んでいたので意外であったが、敵の首領を逃したとあっては鎌倉府の満兼に申し開きが出来ない。

夜陰の大追撃が始まる。結城としては一昨年の応永七年の政宗追撃失敗が脳裏をかすめる。
今度は失敗出来ない。
しかし暗闇の至る所で鬨の声が上がり政宗の居場所など分かるはずはなかった。






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Novel Editor