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異聞 政宗記(いぶん まさむねき) 作者:GART

第10回   その参 足利満兼の政宗追討令
「大崎と芦名合流次第、南下し白河の関をこえるつもりだ」
政宗は家臣団を集めてそう語った。
弟の孫三郎や亘理や桑折家からも異存はない。

まず足利義満を援け牽制するにはいち早く兵を徴収し動かすべきだと伊達勢は整うと、赤館(だて)を飛び出し南下する。

今回の目的は鎌倉府の陽動にある。それでなくても京都の義満の周辺は不穏な動きをする輩が少なくない。
現に堺の二万の大内勢などは、その典型で京都に短刀を突きつけた形である。
この情勢に東から鎌倉府が上洛などされたら幕府は瓦解する。
それを防ぐのは政宗が白河結城満朝の軍勢をけちらし南下する事である。
さすれば否が応でも鎌倉府は眼を北に向けざるをえないのだ。

芦名満盛の正室は政宗の妹であり合戦の出来次第では加勢も期待できる。
また田村清包の娘が宗遠の妻であり政宗の母にあたる。ここも期待できる。
これらの加勢を引き出すためにも白河の結城満朝を叩かなければならない。
むろん稲村公方や篠川公方も結城氏に頼む所が大きい。

話は前後するが前関東公方・足利氏満は応永十五年十一月四日の死の床で、満直と満貞を奥州に下すので伊達・白河に後事を託すと遺言した。
また氏満の正室も「伊達を父とし白河を母として頼む」と念を押した。
南奥羽の実力者は伊達と白河結城と見込んでの遺言である。

その実力者の結城満朝を叩かなければ陽動作戦は効を要しない。
夜陰に乗じて結城・稲村・篠川勢の陣中を突破する形で合戦が始まった。

一方、大崎詮持は政宗勢に結城が眼を奪われる間に南下し武蔵を下り、なんと鎌倉の瀬が崎(横浜)まで進駐した。

この動きに驚いた鎌倉の満兼は、兵を北に向けた。
予定通り東西から義満を挟撃していた場合はどうなったか分からない。
この北進に大喜びしたのは義満である。

すぐさま堺攻めの軍勢を整えて大内を攻め立て降参させる。

満兼は京都の展開も知らずに正面の大崎詮持を追い散らすし、やがて彼は田村庄まで逃げ帰るが自害する。

政宗は予想を越える結城満朝の抵抗に合い、また大崎の悲報を聞いて退却する。
満朝は信夫庄まで追いかけたが、挙兵の首謀者・政宗は出羽まで逃げ下り命は助かった。

この戦いを人は第一次政宗の乱という者もいる。戦(いくさ)は負けたが、中央では義満の大勝利と相成り、政宗は所領安堵だけでなく美濃と越後の一部を恩賞として与えられたというが確たる証拠はない。

この戦いで義満の体制は磐石となり、今川良俊は一連の関与を否定して命だけは助けて貰い島流しに合う。
満兼は義満から謀反の疑いをかけられ謝罪という形で、この戦いは終焉を迎える。

政宗はいくさに負けて勝負に勝ったのである。






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Novel Editor