伊達政宗
政宗という名前は歴史上、二人いる。 ひとりは独眼竜政宗という仙台藩の開祖。
もう一人は独眼竜より二百年前の南北朝時代にいた。その名前も伊達大膳大夫政宗。 名前が同じだと運勢まで似るのか伊達に降りかかる火の粉に追われる政宗の半生が この物語である。彼がいなければ伊達は戦国時代を待たずして歴史から消えうせて いたのだ。いかに危難を乗り切り次の独眼竜政宗までつないだのであろうか・・・。
物語は陸奥の阿武隈川周辺の伊達郡から始まる。
政宗は赤館から一人馬に跨り南へと駆け出した。 まったく一人になれるひと時である。 家臣一人も後を追いかける様子もない。
「俺に嫁か」
政宗は嫁の実家になるの石清水八幡の別当・善法寺通清に思いを馳せた。
「善法寺と縁続きになるのか」
善法寺は紀(きの)氏の流れで天皇家と足利家に娘を嫁がせている。 今年(1371)の三月には後円融(ごえんゆう)天皇が即位した。
三年前に三代将軍になった足利義満の母は紀良子という善法寺通清の妹である。 今や善法寺家は飛ぶ鳥を落とす勢いである。
「俺は咲々(ささ)という名前以外は何も聞かされていない」
政宗は赤館を見下ろせる丘に到着すると馬から降りずに深呼吸する。 赤い館と書いて「だて」と呼ぶ館は、聞こえは屋敷のようだが桑折西山城 という平山城である。 水郷の誉れ高き阿武隈川は堂々たるうねりを加えて北へと流れてゆく。 阿武隈川の東に霊山という険しい山岳地帯が突然つながり、やがて阿武隈高地につながり 太平洋に続く。 一方西を見れば豪士山という千メートルの山々が赤館の背後を囲んでいる。 少し南西の麓には穴原とか飯坂という温泉集落がある。 また赤館の南方には長倉彦太郎という伊達一族の一門が長倉館という砦を構えている。 さらに眼を南に転ずれば、家臣の石田氏が城代する箱崎館があり、さらに南東には岡館 がある。 これはいずれも館という言い方しているが、砦のような堅牢な作りをしている。
さらに付け加えれば常陸との国境の棚倉に伊達の飛び地があり、そこの屋敷も まぎらわしい赤館(だて)と呼んで赤館氏に城代を任せていた。 余談だが二つの赤館に挟まれて田村・小沢氏という豪族がいた。 眼を少し西に向けると白河関があると言えば地形がなんとなく理解できるであろう。 さらに西には伊達とは宿敵の白河結城氏の白川城があり、城の付近を流れる川は すべて阿武隈川の支川となり、北へと流れ政宗のいる桑折赤館の麓まで続く大河へ となってゆくのだ。
「四年も待たされたのは善法寺との政略結婚を密議していたのか。親父殿の考えそうなことじゃ」
政宗はそう吐き、父・宗遠(むねとを)のいつもながらの風見鶏に呆れた。 後円融天皇は北朝方の帝であり、伊達は建武中興以後は一環として南朝方に属し、その関係でこの南北朝動乱時期は延々と長井氏と南奥羽でどちらが正当な天皇かで争っていたのだ。 長井氏が北朝の代表として伊達が南朝の代表として争っている最中に、婚姻は北朝と縁続き になる善法寺との婚姻である。 驚かない方が不自然ではないか・・・。
14歳で元服した政宗は18歳の夏に妻を娶る事になった。
|
|