「・・・」 「ここ?」 「・・・」 青年は黙ったままだった。目の前には地上数十メートルはある大きなビルが建っている。 「ねぇ、こ―――」「入ろう」 青年は少し、いや、かなり表情を硬くしていた。それを覗き込むようにして少女が顔をしかめる。 「怒ってるの?」 「・・・まぁね」 青年は興味なさげにそう答える。ビルの中の時計が止まっていた。エレベーターも下半分だけが窓から覗いていて、中途半端なところで止まっていた。照明も全く点いておらず真っ暗。青年は確信する。時間そのものが止まっていた。 「22階だよ」 青年は小さな声でそう呟くと、階段へと向かった。 「・・・上るの?」 「うん・・・って何やってるのさ」 「何って言われても・・・」 少女は四つんばいの状態で階段を上ろうとしていた。 「やっぱり二足歩行じゃ階段は無理?」 「ん・・・できれば人間らしいほうがいいわ」 とは言うもののかなり難しいらしく、2階上がったところでやめて、また猫のように上り始めた。 「はぁ・・・はぁ・・・」 「変ね・・・あたしこんなに体力なかったかしら・・・」 「人間なんて・・・そんなもんだよ・・・」 半分の11階まで来たところで、2人はかなり体力を消費していた。青年は元々体力がなかったし、少女も人間の体の疲労に戸惑っていた。そうして22階に着くころには、ふたりともうっすらと汗を掻き始めている始末だった。 「ここだ・・・」 「知ってるの?」 「・・・まぁね」 青年はずっと険しい表情のままで答えた。 「こっちだ」 半ば導かれるようにして、青年はその場所へと向かっていく。やがてひとつの看板を見つけた。 「なんて書いてあるのかしら・・・」 「さぁ?」 「人間は文字が読めるんじゃないの?」 「これはこの国の言葉じゃない」 「じゃあどこの国の言葉?」 「知らない」 知らないことはない。それはイタリア語であることを青年は知っていた。ここはイタリア料理店だ。 「入ろう。多分もう食べ物の方は用意されてるから」 青年は返事を待たずとして1人で店の中に入った。少女は興味深げに看板を見つめていたが、青年がいなくなったことに気づいて、慌てて追いかけるように入っていった。 (・・・) 青年は迷うことなく、その料理店の一番窓際の小さな丸テーブルまでやってきた。2つの向かい合った椅子が用意されており、その前には、ラザニアと、スパゲッティが綺麗な皿に盛り付けてある。 「座ってよ」 青年は振り向くこともせず、後ろを追いかけてきた少女に促した。少女の方は「人間は真後ろも見えるものなのかしら?」とかなり驚きを隠せないでいたが、なんのことはない、ただ足音を聞いただけだ。普段足音の少ない猫の動きを考えると、背後からの接近を悟られるのはよほどのことでないとないのだろう。 「・・・」 青年も座る。目の前に用意されたラザニア。おそらく自分のために用意されたであろうそれを、青年は複雑な心境で見つめていた。 「これどうやって食べればいいのかしら?」 一方少女はスパゲッティを見てどう食べるかを悩んでいた。 「そのフォークで食べるんだよ」 「ふぉーく?」 青年は実際にやって見せたが、少女は無論フォークなんて使うのは初めてだったので、いくら巻いても口まで運ぶことができず、結局は諦めて手で食べ始めてしまった。 「・・・」 「どう?おいしい?」 「何も味がしないわ」 青年は試しに自分もラザニアを口に運んでみた。 「・・・美味しいけど?」 「本当?じゃあちょっとそっちを食べてみてもいい?」 「どうぞ」 少女がラザニアの皿をとって、またしても手で食べている間、青年はスパッゲティも口に入れてみた。トマトソースの味が口に広がる。そういえば自分はトマトが好きではなかったなと、青年は顔をしかめた。ラザニアもよく見ればホワイトソース仕立てだ。 「・・・やっぱり味がしないわ。ねぇ、なんでなのかしら?」 「なんでって言われても・・・」 猫にはイタリア料理の味は分からないのだろうか?でも今は人間の少女だ。青年は「う〜ん・・・」と少し考えた。 (夢・・・夢・・・夢・・・?)
『夢は記憶の整理』
青年は一瞬はっとした表情を浮かべ、それから俯いてこう答えた。 「多分・・・それは君がその料理を食べたことがないからじゃないかな。夢の中では食べたことのないものの味は分からないのかも知れない」 「へぇ・・・そんなものなのかしら」 「それより・・・屋上へ行かないかい?」 「屋上?別にいいけど・・・でもどうして?」 「・・・なんとなく、気まぐれに、ね」 青年は顔を上げずに言葉を続けた。言葉では少女を誘っていても、その声には反論を許さない響きが含まれていた。 「いいわ」少女は立ち上がる。 「ここから4階上がった所なんだ。行こう」 青年も立ち上がって歩き始めた。その目はどこか遠く、自分の知らない場所を見ている。少女は黒猫としてそう直感的に感じた。 「この先に何があるの?」 殆ど無表情の青年に少女は疑問を素直にぶつける。 「さぁね、僕にも分からないよ」 青年の答えはそっけないものだった。行き先には何もないとでも言うのだろうか?少女はわけも分からないまま、早足で階段を上る青年の後を追いかけた。 やがて階段は終わり、ひとつのドアが視界に入ってきた。ドアの上には[屋上]と書かれている。 「・・・」 「この先?」 「そうだよ」 「入らないの?」 「・・・」 青年は何かを躊躇っていた。この先にこの時間の止まった世界の鍵がある。この扉の先にあるのはあの日の――― ガチャ・・・ 「!」 「人間ってときどきわからないわ・・・どうしてこんな開けにくいもの作るのかしら・・・」 ドアは青年の決断を待たずして開いた。少女は更にドアを大きく開いていく。陽の落ちた紫の空が広がっていく。 「入らないの?」 先に屋上へと足を踏み入れた少女が聞く。青年は顔を俯け「今行く」とだけ答えた。一歩踏み出す。照明の無いビルの中からすれば明るい世界が一面に広がる。青年は真っ直ぐに顔を上げた。そのまま真っ直ぐ歩き出す。 「・・・」 「どうしたの?」 横から表情を覗き込むようにして少女が聞くが、青年は答えない。ただ一心不乱に前に歩き続ける。やがてフェンスにぶつかるようにして、青年は止まった。青年はそのフェンスを強く掴んで、その先の景色を覗き込んだ。徐々に広がっていく「あの日」の記憶が青年の心を支配していく。これが夢ならもう醒めてもいい。酷い悪夢だ。やめてくれ、折角忘れようとしてたんじゃないか!―――「・・・どうしたの?」 「っ!」 「どうしたの?顔色が悪いわ」 少女の声で急激に一瞬だけ現実へと引き戻された青年は、その場で崩れるようにして膝を折った。死ぬのは怖い。しぬのはくるしい。シヌノハイヤダ。死ニたクナい。最期の声が心の中で反響する。 「あ・・・あ・・・!!」 「だ、大丈夫―――!!?」 少女は青年の瞳を覗きこんでぞっとした。酷く怯えた表情で、震えている青年の瞳は虚ろで、生気が消えかけている。黒猫としての直感。これは危険だ。そう判断した少女は必死に青年の肩を揺すり、語りかける。 「駄目!駄目よ!」 「あ・・・うぅ・・・」 青年の身体から力が抜けた。 「!!」 ドサッ! 青年の身体が地面に崩れる。少女は慌てて青年の口元に手を置いてみた。息はしている。よかった・・・と、少女は安堵のため息ををついた。が、さっきの青年の表情を思い出して身を固くした。怯えて、生気の無くなった瞳。死を連想させる恐怖の形相・・・少女は強く頭を振った。考えないように、吹き飛ばすように。
「う・・・」 「気がついたかしら?」 青年は少女の予想に反して、数分で目を覚ました。 「っ!」 青年は咄嗟に頭を抱え込んだ。 (痛い・・・!!) 「・・・」 「・・・」 暫くの沈黙。 「ねぇ」 「・・・何?」 「・・・戻らない?」 「どこへ?」 「・・・僕たちが最初にいたベンチへだよ」 「分かったわ」 青年と少女は26階分の階段を降りていった。少女の方は二足歩行に慣れていないので、階段を降りるのが極端に遅くなり、1階までたどり着くまでに相当な時間がかかってしまった。 そうしてやっと外に出たとき、やっと2人が世界の変化に気づき始めた。 「あれ・・・暗くなってる・・・?」 「どっちかっていうと曇ってるわ」 ザー・・・!! 「雨だ・・・」 青年は空を見上げた。顔を打つ雨の冷たさを感じる。 (嗚呼・・・) 青年は自然と目を閉じていた。 (雨って・・・こんなに冷たかったんだ・・・) 青年は自分が眠る前のことを思い出していた。あの雨の冷たさ、それを今ここで感じている気がした。 「行きましょうよ」 少女の声で、青年は不意に現実に引き戻された。 「濡れるよ?」 「いいじゃない。夢の中だもの」 少女は手を差し伸べる。青年はそれを暫くの間見つめた後、その手を取った。 「行こうか」 「ええ」 ザー・・・ これだけのビルが建ち並んで、雨音と足音だけが響いているのは、どこか幻想的な風景だった。 (そういえば、『あの日』も雨が降ったな・・・) 「ねぇ」 「何?」 「あたしは人間の考えることはよく知らないけれど、あなたはさっきから随分とたくさん表情を変えるのね」 「えっ・・・?」 「どこか遠くを見てるような目をしてたり、苦しそうだったり・・・それに今のあなたの表情、あなたがあたしを拾い上げてくれたときもそんな表情をしていたわ」 青年は言われてはっとする。そして訊いた。訊くまでも無く答えは知っていたが―――。
「・・・今の僕は・・・悲しそう?」
「・・・ええ」
やがて2人はベンチへと戻ってきた。少女は相変わらず無表情なまま。青年は悲しそうな表情のままで。 「・・・」 「・・・」 「訊いても・・・いいかしら?」 「答えられる範囲ならなんでも」 ザー・・・ 勢いを増していく雨の中で、少女は俯きながら、それでもはっきりと訊いた。 「さっき・・・なんで倒れたのかしら?」 少女は青年がこの話題を極力避けているのが分かっていた。それでもあえて訊いた。少女は知りたかった。 「・・・ふぅ」 青年はため息を漏らした。何も言わず、その場で青年は目を閉じた。激しく降りしきる雨の音を聞きながら、青年は暫く何も言わなかった。青年は灰色の暗い空を見上げ、乾いたため息を吐いた。俯いて青年は逆に訊き返す。 「君は・・・君は人間になりたいって望んでるんだよね」 「ええ、とっても」 「・・・なんでかな?」 「?」 「君は・・・なんで人間になりたいんだい?」 「それは・・・だって、人間になれば食べ物を探すのにゴミ箱を漁る必要なんてないし、小鳥をわざわざ捕まえる必要もないし、人間は名前も持っているわ。暖かい寝床も、遊ぶための道具も、病気を治す薬も、人間はなんだって持ってるもの」 「・・・確かに・・・そうだね」 青年は顔を上げた。顔を打つ雨に目を閉じる。 「でも・・・多分」 青年は首を横に振って、また俯いた。そして少しだけ自嘲的に笑う。 「人間はたくさんのものを持ってる。でも人間はそれ以上のものを背負わなくちゃいけない。それに人間は・・・あまりにも愚かすぎる」 「愚かすぎる?」 「・・・僕は・・・人間が」 青年はその一瞬だけ怒りを露にして、どこか殺意にも似た感情を込めた。
『僕は人間が大嫌いだ』
「・・・言っていることの意味がよく分からないわ」 「・・・本当は君にこんなことを言うつもりはなかったんだけどね・・・」 青年は自嘲的に笑ってから、喋り始めた。
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