小さい頃、母が私に教えてくれたことがあった。 綺麗な、碧い色をした兎が幸せや夢を運んでくれるんだって。 でも、それは人間には姿を見せなくて、たった独りで、配り歩いているんだって。 私はそれを聞いたとき、何だかとても寂しくなってしまった。 たった独りでなんて寂しいに決まってる。私はそういいながら泣いてしまった。 すると、母は静かに笑って、私の頭を撫でて、 「碧い兎は、きっと、寂しくなんてないわよ」と言った。 どうして寂しくないのか。私はいまだにそれが分からずに、毎日を過ごしている。
私には、両親がいない。 小学校を卒業するのと同時に、天に召されてしまった。交通事故だった。それから、私は親戚の家にもらわれるでもなく、小さい頃から通っていた道場で過ごさせてもらっている。ただの門下生にそこまで優しくするなんてどんなにお人よしなんだろう。そう思ったけど、口には出さなかった。私は親戚が大嫌いだったから。 父さんと母さんの悪口を言う親戚なんて、大嫌いだから。 父さんは、結構なお金持ちで、母さんはただの平凡な庶民だった。だから母さんと結婚した父さんは家から追い出されて、でも、私たちは貧しくても幸せな毎日を送っていた。 それなのに、それはたった一度の事故で失われた。 何を恨んでいいのか。どうすればいいのか。私はそれが分からずに呆然としていた。お葬式でも泣けなかった。親戚は、私のことを感情のない子供だと言った。 でも、私は感情がないわけじゃない。感情のない人間なんているはずがない。お葬式の場で朗々と悪口を言う人間に、感情のない子供呼ばわりされたくない。 私は、家に帰ってから線が切れたように泣いた。止まらなかった。悔しくて、悲しくて、もう、何が何だか分からなかった。 そして、思った。 「碧い兎」なんて、いやしないんだって。 幸せなんて、運んでくれないんだって。
私は、高校生になっても、今もそう思っている。
「…おい、真(ま)智(さと)?」 ほんの少し苛立ちの混じった声に、私は緩慢(かんまん)に顔を上げた。目先には肩までかかった、一房に纏(まと)められた銀髪が微かに弧を描く。 「もう皆クラブ行っちまったぞ。ボーっとしてんなよ。お前らしくもない」 「…狼(ろう)は?」 「お前が残れって言ったんだろうが」 狼は精悍(せいかん)な顔立ちを歪め、近くの机に腰を下ろした。はだけたブレザーの上から腕を組み、さも面倒くさそうに口を開く。 「早く済ませろよ」 ぶっきらぼうな物言いに、私は少し安心した。 何だかんだ言っても、狼は私の話を聞こうとしてくれる。いつもなら不真面目で、絶対私の話なんて聞こうともしないのに、私がへこんでいるときにはちゃんと話を聞こうとしてくれる。私の一番の男友達。優しくはないけど、温かい存在。 私は小さく笑んで、椅子の背にもたれかかった。 「狼は、碧い兎知ってる?」 幸せを運んでくれる小さな兎の話。 空を飛んで、夢を振りまく兎の話。 私の問いに狼は怪訝そうに顔を顰(しか)めた。何を言ってるんだとでも言うような反応に、私は苦笑する。 「……今日ね、父さんと母さんの命日なの」 私の中から兎が消えた日。 私から幸せから遠ざかった日。 「母さんがね、昔話してくれたの。青い兎は、幸せを運んでくれるんだって。夢をくれるんだって。でもね、私にはいないの」 私は何だかおかしくなって、笑ってしまった。そんな私を、狼はただ無表情に見つめる。 「おかしいよね、私、今すっごく幸せなはずなのに」 「………」 道場に養ってもらえて。友達だってたくさんいて。彼氏だっていて。 勉強だって好きだし、クラブだって順調。なのに、なのにね。 「……何でかな、全然、幸せじゃないの」 私の中には、いつだって兎はいないの。 ふと、そう気づいた時には、心が張り裂けそうだった。 兎がいないせいで、また私は幸せじゃなくなっちゃうんじゃないかって。そう思うと、苦しくて、胸が痛んで。どうすればいいのか分からなかった。 たった独りで幸せを運ぶ兎と、幸せなのに幸せじゃない私。母さんは昔、兎は寂しくないって言った。でも、私にはどうしてか分からない。 独りは寂しいに決まってる。 独りは苦しいに決まってる。 なのに、兎は幸せなの? 寂しくないの? 兎がいない私には分からないの。どうしてか、分からないの。 兎も私も、幸せなんかじゃないんだって、思っちゃうの。 私は、下を向いた。重力に抗うことをせず、水滴は一筋私の頬を伝った。 狼は、黙って私の話を聞いていた。居心地の悪そうに頭をかく音が聞こえる。 しばらくずっと、沈黙が続いた。その時間があって、そして、 やがて、狼がそっと私の頭を撫でた。 「馬鹿だろお前。…本当に幸せな人間なんて、いるはずないだろ」 「………」 顔を上げる私に、狼は不器用に笑った。 「兎だなんだって、俺には分かんねぇけど。でも、お前は独りじゃないだろ」 「………」 「人間ってな、独りでは生きられないんだって昔言ってたやつがいた。誰かが必要なんだって。強がってても、必要なんだって。だから、独りじゃない奴は強いんだって。ちゃんと幸せになれるんだって」 狼が言うのと同時に、廊下から話し声と足音が聞こえた。複数の話し声と足音は、聞き覚えのあるものばかりで、私はまた胸が熱くなるのを感じた。 でも、これはさっきの苦しさとは全然違う。 首を傾げる私に、狼は私から手を離して机にもたれかかった。 それから、静かに笑んで廊下に目を向ける。 「美咲なら兎の居所、知ってるだろ」 いつもなら怒っているように鋭い銀の瞳が、優しく細められた。 廊下の足音はどんどん近くなってくる。そしてその中に大好きな優しい声。 杉谷君。私の恋人。お父さんみたいに温かくて、泣きそうなほどに愛おしい存在。 私は強く目を擦(こす)った。あはは、と自然に笑みが零(こぼ)れる。 「知ってるかな」 私は呟くように言った。狼は苦笑気味に笑った。 「知ってるだろ」 がらりと、教室のドアが開けられた。 「やっぱりいたぁ。遅いよ、狼、真智!」 へらっと笑って、私と杉谷君を繋(つな)げてくれた、まるで弟みたいな存在の楽蓙(らくざ)はこちらに駆け寄ってくる。そして、大好きなクラブのみんなも。 私はそっと顔を上げた。その時に、みんなと頭一つは違う、杉谷君が目に映る。 杉谷君は困ったように小さく笑った。そして、私のほうにゆっくり歩いてくる。 「狼が、また何か悪いことした? ごめんね、志摩さん。泣かないで」 「なっ…! 何言ってんだよ、美咲! 俺何もしてな…」 「あ、ホントだ。真智泣いてるじゃん。狼ひでー」 「楽蓙……怒るぞ」 「ひぅ! み、美咲ちゃん助けてー!」 「狼ってば…もぉ」 苦笑する杉谷君。その笑顔が、優しくて。 温かくて。 心の中の、重かったものがなくなっていくようで。
「………っ」
私は、声を上げて笑った。 さっきまで考えていたことが、全部霧(きり)が晴れるように消えていった。 きょとんとするみんなの前で。 狼だけが、やれやれと顔をほころばせていた。
ねぇ、碧い兎さん。 あなたは独りでも寂しくないんだね。 私、たぶんあなたの気持ち、分かったよ。 温かい人の笑顔って、とても幸せになれるんだね。 ねぇ、碧い兎さん。 私は、ここにいるよ。 あなたがいなくても、幸せだよ。 今、やっと気づいたの。 みんなと、大好きな人といる時間が、私にとって最高の幸せだって。
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