「ごめんやして遅れやしてごめんやっしゃ〜★皆さんお元気ぃ?」
ガタンッ!
現在、もう日は完全に昇りきっている。南中した太陽は薄く開いた窓から教室に光りを
覗かせ、各々弁当やらの昼を広げて笑い合っている光景を照らしていた―――筈だっ
た。
片肩だけに黒いリュックを背負った名糖は、何の躊躇もなしに教室へと足を踏み入れ
る。一斉に、椅子から落ちた生徒のほとんどが、開いたドアへと視線を向けた。してや
ったり、という感じで名糖(めいとう)は垂れ目を少しだけ細め、
「お、あれ〜?俺サマ有名人〜?サイン欲しい人は並んでね〜♪……なぁんちゃって
ぇ」
そう言って名糖はリュックをすぐ真横の机に置いた。すぐさま、近くに座っていた健都
(けんと)が名糖の元へと駈け寄る。夕日のような赤いサンバイザーを付けた健都は名
糖の傍に駈け寄り、笑みを湛えて机の上に両手を乗せた。目線を上げ、口を開く。
「遅刻だ!ばかめーとー!理由を申せ!きたはらは電話したと言っておるぞ!」
健都は詰め寄る警察官のような口調で、ビシッ!と喜多原(きたはら)を指差した。机
数個離れた所に座っている喜多原と杉谷(すぎたに)に目配せし、名糖は首を傾げる。
「え?うそ、してたの?今日、モーニングコール?」
問い掛けてくる名糖に喜多原は何も言わず、終始むすっとした顔で箸を動かしていた。
喜多原の向かい合わせに腰を据えた杉谷が、喜多原の代わりに名糖と健都に目線を向け
る。体躯の良い身体に似つかわない、何とも優しい目をしている。椅子の背もたれに腕
をかけ、杉谷は薄い微笑を浮かべた。
「名糖くん。今日もまた遅刻?や、おはにちはー」
杉谷のその外見からは想像もつかないほどの優しい声に、名糖はうん、とだけ言ってさ
らに表情を崩す。健都の髪をわしゃわしゃとかき回しながら、杉谷と喜多原に声をかけ
た。ピクリと、喜多原の肩が揺れる。
「うん〜。おはにっち〜。美咲ちゃん。ヒロも。元気ぃ?」
……突如。殺気にも似たものが、喜多原の周りを包んだ。ビクッと、杉谷の大きな身体
が跳ねる。周りに座っていた何人かも、杉谷と同じ反応を見せた。どす黒い空気が、喜
多原を中心に教室を満たして行く。
「あ、あわわわわ…。め、名糖くーん!ちゃんと謝って…!朝、ヒロがわざわざ遅刻し
ない様にって電話してくれてたのに起きなかった名糖くんが悪いよ!」
「む、無理無理〜!ちょ〜っと俺には気が重い……。つ〜事で、帰るか!」
自分に向けられるクラス全員の非難の視線から、引きつった笑顔のまま振り返りかけた
名糖の頭に……。
「待ちなさぁい!名糖!」
「痛ぁ!?……ま、真智(まさと)!?」
バシッと、小気味良い音が名糖の頭から響いた。疑問と怒りの入り混じった表情で名糖
が下方を見ると、一冊の教科書。澄んだ高い声に顔を上げると、ショートの黒髪が印象
的な少女、志摩(しま)が、腰に手を当て不敵な笑みを浮かべていた。その表情は、清
純そうな志摩に全くそぐわないもので、名糖は顔を顰める。何だよ、とくぐもった声で
発すと、志摩は突如表情を和らげた。揶揄するように名糖の肩を叩く。
「だめだよ。ちゃんと電話してくれたヒロちゃんに謝らないと。ヒロちゃん、ずっと心
配してたんだから。……ねぇ?杉谷くん」
微笑んだまま声をかけてきた志摩に杉谷は彼女の目も見ないまま、うん、と小さく言っ
て首を下げる。頬が紅潮していた。隠す様な杉谷の仕草に、ようやく喜多原が重い頭を
上げた。杉谷の髪を何度か梳きながら、氷でも含んだ目つきで名糖を睨め付ける。一
歩、名糖がたじろいだ。乾いた笑いが、意識してもいないのに名糖の口から漏れる。
「わ、悪かったよ、ヒロ……。本気で謝る。だから睨むのは止めてくれ…」
「そーそー。めーとーみたいなスーパー遅刻魔人にそんなのやってもムダだって!そん
なのしたって、めーとーの遅刻ぐせが治るわけないんだから!」
健都の茶化した言葉に、枷を外したような笑いが教室中に響き渡った。名糖だけが、何
も言えず複雑な表情で健都を見下ろす。喜多原も、何時の間にか笑みを見せていた。
名糖は一旦喜多原から目を外し、何かを探る動作で名糖は教室を見渡す。そして、ふと
視線を止めた。
杉谷が、何やら神妙な顔つきで机の上を見つめている。それも神妙な顔つきで、笑顔の
満ち溢れた教室を遮るほどの勢いで。――何か様子のおかしい杉谷に名糖は疑問気に顔
をつくり、思い付いたように軽い足どりで杉谷のもとへと足を進めだした。
クラス中に湧いていた笑いは、すぐに各々の話題へと姿を変えて行く。健都も志摩も、
それぞれ友人の元へと戻って行った。どうやら、名糖をからかいに来ただけだったらし
い。
「美咲ちゃん。どうしたの、下なんか見て〜。何か面白いものでもあんの〜?」
広い杉谷の肩に腕を回し、囁く名糖に杉谷は顔を上げる。何故か、困ったような顔をし
ていた。八の字の眉が、名糖達に何かを訴えているようで、名糖は首を傾ける。
「美咲ちゃん。どしたんだよ、そんな顔して〜。男前が台無しだよ〜?」
複雑な表情で再度目を伏せる杉谷に、名糖は口をつぐんだ。何を言って良いのか分から
ず、名糖は喜多原に目線を向ける。喜多原も肩をすくめ、仕方ない、と言わんかのよう
に口を開いた。なるべく優しい口調を心がけて……。
「……おい、ミキ。何か言え」
……『優しい口調』……?喜多原の思わずささやかな怒気を含んだ物言いに、杉谷の肩
が揺れた。弾かれるように、頭を上げる。少し戸惑いの表情を見せながら、流されるま
まに口を開いた。
「……あのさ、いきなり、好きな人から呼び出されたら、どうする?」
は?とでも言わんばかりに名糖と喜多原は顔を顰めた。それでも理解したのか、頬を掻
きつつ名糖が口を開ける。
「そりゃ、行くと思うけど〜。…、あ、もしかして美咲ちゃん、真智から呼び出しくら
ったの〜?あの恐怖の……っと!」
慌てて、名糖は自身の口を押さえた。なるべく小さく教室を見渡し、志摩がいないこと
を確認すると再び美咲に向き直る。喜多原は、呆れたようにため息を吐いた。当の杉谷
は何の事か全く気付いていないようで、きょとんとしながら名糖と喜多原を目配せす
る。
「と、とにかく。美咲ちゃんのマイラブ☆真智に呼び出されたんだね?で、何か言われ
た?」
取り繕うためか、苦笑混じりの微笑みを浮かべつつ名糖は杉谷に問うた。
「え、あ、うん…」
自分を見たまま微動だにしない名糖達に困ったような表情を作りながら、杉谷は小さく
口をついた。周りには聞こえない声量で、特に、ある人には聞こえない様に。
「あ、あの…。ぼく、今朝志摩さんに『私のボディーガードになって下さい』って言わ
れたんだけど、これってどういうことだと思う……?」
くぐもった声で、杉谷がそれだけ言った。俯いて頬に朱色をかける杉谷に、名糖達は互
いに顔を合わせて目を張り……。
『ボ、ボディーガァドォ〜!?』
教室に響くほどの声量で、名糖と喜多原は同時に叫んだ。
「……さっすが真智。でも、俺あいつには必要ないように思えるんだけど〜…」
近くの席から椅子を借り、机に頬杖を突いて名糖は杉谷を見つめた。意味が分かってい
ないのか、杉谷は首を傾げる。名糖はわざとらしくため息を吐き、天井を仰ぐ。
「美咲ちゃんも、見たでしょ〜?あんのお嬢の俺への攻撃!あいつの前世は絶対ゴリラ
だ!今も夜中には変身するようなやつだよ〜」
どんな飛躍だ……。喜多原は何も言わなかったが、名糖に向けて深く息を吐いた。
「それにさ、危ないよ?あいつお嬢だから、殺し屋とか来たりして!ずっと真智の傍に
いて、危険から真智を遠ざける……。美咲ちゃんと言うか、ただの高校生に出来る事じ
ゃないよ〜」
「でも…」
「そんなに、真智が好きなの〜?命懸けられるくらい?飛躍してるけど、そーゆー事に
なるよ?」
名糖は、言いかけた杉谷の言葉を遮った。…別に、杉谷の気持ちを否定するわけではな
い。むしろ、応援してやりたい。―――でも、出来る事と出来ない事がある。気弱な杉
谷が、志摩のためとは言え危険に飛び込むことなど出来る筈が無い。喜多原も同意見な
のか、何も言わずに杉谷を見据えている。
「…でも…」
……でも?名糖が冗談っ気なしに強い口調で杉谷に言葉を発した。杉谷は一瞬怯むが、
でも、ともう一度言う。三人の耳に、教室から響く無数の笑い声がこだました。押され
るように、杉谷は微笑みを見せる。精悍な顔としっかりした体躯に沿った、意志のはっ
きりした微笑だった。名糖と喜多原は、思わず口を噤む。
「…ぼくには、何があっても志摩さんを好きでいられる自信がある。入学式からだよ?
すぐに、終わる気持ちじゃない」
杉谷は優し気に瞳を細めた。名糖と喜多原も思わずつられて微笑を浮かべる。どんな悪
人でも流されそうな、強く優しい笑顔だった。顔を見合わせ、名糖と喜多原は互いに動
きを止めるが――。
「―――よぉし!分かった!美咲ちゃん!!」
突然、名糖が何を思ったのか勢いを付けて椅子から立ち上がった。クラスメートたちの
視線をまるで気にしていないかのように、ビシッ!と右斜め上を指してウインクをつく
る。杉谷と喜多原は、鳩が豆鉄砲をくらったようにぽかんと口を開けて固まっていた。
二人に、名糖は指先を移す。
「俺とヒロで美咲ちゃんを立派なボディーガードにしてやりまショウ!美咲ちゃんの幸
せのためだ!一肌でも二肌でも脱ぐぞ!」
――――杉谷強化計画、開始。
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