空、見上げる。映る。空。青。白。光。混ざる。 手を伸ばしても、決して届かない幻想の景色。 揺らぐことのない、不変の風景。 彼は、この空が好きだった。
春が、来た。 葉が落ち、寂しそうに佇んでいた木々たちに笑顔が戻り、各々に満開の白い花を咲かせる。その傍らには小さなモンシロチョウたちが我先にと飛び交い、まるでここが幻想の世界だと言っているように思わせた。 今年高校に上がったばかりの少年、大川 晴輝は、この幻想の世界をどこか寂しそうに見つめている。人通りの多い道からは離れたこの場所は晴輝の知るうちでは一番の穴場で、よく父と一緒に散歩をしに来た。父は彼と同じ、それ以上に背が大きく、いつも優しく笑っている温かい人だった。『春の巨人』近所の人たちや会社の同僚たちにそう言われ、親しまれていた。 ―――この冬、父がいなくなった。 過労だった。 度重なる仕事と、心労に耐えかね、とうとう父が倒れてしまったのはつい先日のことだ。父は泣きじゃくる母親の頬に手を添え、静かに、眠るように旅立っていった。 優しい父がこんな風になってしまったことを周りの人は同情し、批判を恐れた会社側は、重役たちの謝罪と幾らかのお金をこちらへと差し出してきた。過労死にしては恵まれていると、近所の人達は慰めてくれていた。 でも、晴輝には、まだ信じられない。 まるでこの春のように、温かな父がいなくなってしまうなんて。 「……死なないと思ってたのに」 絶対に、父は死なないと思っていた。あんなに優しく、強く、誰からも愛される父がいなくなってしまうなんて。 でも、そんな訳はない。父はさっさと自分と母親を置いて、天に昇ってしまったのだから。 馬鹿みたいだ。 空を見上げると、昔父とよく出かけた時と同じ空が広がっている。飛行機雲が空を駆け抜け、小さな蝶がひらりと目の前を通り過ぎる。 「…違う」 晴輝は、ポツリと呟いた。 「もう死んだんだ」 決してもう戻らない、あの日に見た優しい思い出。 飛び交う蝶。咲き誇る梅の花。青い空。千切れた白いマシュマロ雲。 不変の景色のはずだった。少なくとも、父と見たあの頃は。 「…馬鹿やろう」 ―――おい、くそ親父。俺を置いてさっさと死ぬんじゃねぇよ。 約束しただろ? 腕相撲で勝ったら俺を男として認めてくれるって。一度も勝ったことなかったから、俺特訓してたんだぞ。最勝負、いつすんだよ。 酒だって飲ませてくれなかったじゃねぇか。未成年だって。友達はみんな飲んだことあるんだぞ。俺、勝手に飲むぞ? なぁ、親父。 あんたはいつだって優しかったよな。 愚痴だってこぼさなかったよな。 なのに、なぁ、何で。
……勝手に逝くなよ。
逝くなよ、一人で―――…
「―――おい、くそ親父! 馬鹿、寂しいじゃねーか! そっちだって寂しいだろ!? こっちはあったかいぞ、春になった! 昨日母さんがパートに出だした! じいちゃんが盆栽を始めた! 俺は……!」
俺は、高校に受かったよ。
「……っ、」
あんたが通ってた、あんたの母校に受かったよ。あんだけ応援してくれてたもんな。喜んでくれるだろ? 勉強手伝ってくれてたもんな。お守りだってくれたもんな。 俺のこと考えてくれてたよな。誰よりも、親身になってさ。
なぁ、俺……勉強、頑張るよ。
あんたみたいになるよ。あんたを目指すよ。あの広い背中を、追い越して更に先に進んでやるよ。 そんで、今度また会ったときに――― あんたに腕相撲勝って、認めさせてやるよ。俺は男になったんだって。立派になったって。
「……だから、それまでお別れだ」 これは最後なんかじゃない。また会うときのための、少しだけのお別れ。 俺、そう思うことにするから。 だからあんたも、待っててくれよ。 この不変の空の上で、待っててくれよ。 ここに来るたび思い出すから。 空を見上げるから。
あんたが大好きだった、この空を見上げて。
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