(そっか、もうこんな季節なんだ……) 久しぶりに味わう外の世界は、記憶の中にあるものからガラリと様変わりしていた。そりゃそうだよね、だって私がここに運び込まれた頃といったら、分厚い灰色の雲からコンコンと雪が舞っていたはずなのに、今こうして目に映っているのはふうーっと息を吹きかければ瞬く間に消えてなくなりそうなぐらい薄い霧にオブラートされたかのような青い空、そして雪の代わりに空を彩っているのは風に乗って優雅な舞いを披露している淡いピンク色をした桜の花びらだった。 「色々とお世話になりました」 「こうしてシャバに出られたからにはもう二度と戻ってくるんじゃないぞぉ〜〜〜」 病院の正面玄関前のはずなのにまるで刑務所から出所するシチュエーションを思い浮かばせるような台詞のあとに続いて、最後に舌先をチロッと出して悪戯っぽい笑みを浮かべているのは、例のプロジェクトの賛同者にして担当医である知佳ちゃん。ちょっとたれ目気味の茶色の瞳に童顔な顔立ち、軽くウェーブの掛かった髪が時折吹き抜けていく風に乗ってゆらゆらと揺れていた。 「あれ? あれあれ? うけなかった? おっかしいなぁ、大抵の患者さんには評判良かったのになあ〜」 頭のてっぺんにおっきなクエスチョンマークを浮かべコメントを求めてくる知佳ちゃん。 「いえ、そういう訳じゃないんですけど。なんて言うか知佳ちゃんらしいなーって」 「えへへ、ありがとっ♪」 返事を聞いた途端、嬉しそうに頬を緩ませる知佳ちゃん。うーん、この喜びようからしてきっと知佳ちゃんのこと『えへへ、褒められちゃった』なんて勘違いしてるんだろうなあー。ま、別にいいけどね。 「そうそう、話は変わるんだけど。どうかな、足の具合は?」 「すごくいいですよ。とは言ってもさすがにまだこれなしでは歩けないですけどね」 「大丈夫だよ、未萌ちゃんだったらすぐにでも松葉杖なしで歩けるようになるから、ねっ」 最近になって気付いたんだけど、知佳ちゃんにそう言われると何故だかそう思えてしまう自分がいる訳で。でも、不思議だよねー。普段の知佳ちゃんの行動からすれば(医療器具を載せたワゴンをひっくり返したりとか、患者さんを乗せた車いすを下り坂の途中でぱっと手を放しちゃったりとかその他諸々)天地がひっくり返ったってそういう風には思えないんだけどね。もしかしたらこれって知佳ちゃんの隠れた才能なのかな? 「これもひとえに佳音ちゃんのお陰かな?」 「……そうかもしれませんね」 ポケットから例のものを取り出す。知佳ちゃんは懐かしそうにそれを見つめながら、 「それにしてもすっかりボロボロになっちゃったね」 「ずっと持ち歩いてましたから、肌身離さずに……」 私の手の中にあるもの、それは一通の手紙。佳音ちゃんからもらった大切な、とっても大切な手紙。 これを受け取ったのは手術が無事成功し、リハビリが始まってからしばらく経ったある日のこと。ちっとも言うことの聞かない自分の体に嫌気が差し、リハビリをボイコットしてしまった私に『これ、佳音ちゃんから預かってたの』そう言って知佳ちゃんが手渡してきたものだった。そこには一言こう書かれてあった。
『未萌ちゃん、逃げたら承知しないからね』
そう、名前を除けばあの手紙と一緒。佳音ちゃんの妹さんである佳澄ちゃんが佳音ちゃんに宛てた最後の手紙と一緒。その手紙の重みを知っていた私は読んだ途端、思わず泣き出してしまった。その日を境に決められた時間はもちろんのこと、空いている時間があれは自主的にリハビリをするようになった。余談だけど、あまりにも張り切りすぎて、あと一歩でドクターストップなんてこともしばしばやらかしちゃったんだけど。でもそのお陰というか、リハビリを始めて二ヶ月という短期間でここまでこぎつけたんだけどね。 「それじゃあ、そろそろいこっか」 「……はい?」 行くって……一体何処にですか? 全くもって見当もつかない私は知佳ちゃんへと聞き返す。すると知佳ちゃんはそれはもう不満で満ちあふれた顔を向けながら、 「『はい?』じゃないよぉぉぉ〜〜〜〜っ! 約束したじゃないの、退院祝いしようねって」 ええ、確かに約束しました。……ただし五分前ですけどね。まったく、どーして知佳ちゃんってばいつもいつも思いつきで行動するんだろう。もう少ししたらお父さんとお母さんが迎えに来ちゃうっていうのにもう……。 「大丈夫大丈夫、昨日のうちに未萌ちゃんのご両親には連絡しておいたから。私が責任を持って自宅までお届けしますってねっ♪」 知佳ちゃんは両手を腰に当て自信満々、えっへんと大きく胸を張りながらそう言ってきた。 「いつの間に……」 「えへへ、これも例のプロジェクトの一環だからね。それじゃあ、れっつごぉぉぉ〜〜〜〜〜」 それから私たちはタクシーに乗ってとある場所(なんでも到着してからのお楽しみらしい)へと向かった。
「いらっしゃいませー」 「……えっ?」 知佳ちゃんに連れられてやってきたのは病院から車で五分ぐらいのところにある喫茶店。本日貸し切りという札の掛かったドアを開けた途端、聞こえてくるのは優しい音色を奏でるピアノの音。そしてなにより驚かされたのは目の前にいる店員だった。 パフ・スリーブの紺色のワンピースにフリルのたくさんついた真っ白なエプロンドレス、頭にはこれまたフリルをあしらったカチューシャ、ごくごく一般的に言うところのメイドさんスタイルと呼ばれる衣装を身につけた優希が車いすにちょこんと座っていた。 「お二人様ですか? おタバコは……って、お二人とも吸わないですよね。それではお客様、お席へご案内致します。こちらへどうぞ」 窓際にある四人掛けの席へと案内する優希。(余談だけどこのテーブル、四人掛けにしては大きすぎるような……。これなら六人、いや八人は余裕で座れるんじゃないかな?)その手慣れた振る舞いといったらそこら辺のファミレスの店員さんよりも上手かった。そういえば前に『喫茶店でアルバイトしてみたいな』なんて言っていたっけ……って何納得してんのよ! 何で? 何で優希がここにいるの? だって優希はまだ入院しているんだからここにいるなんておかしいじゃない。その辺りを本人に直接尋ねると『センセがね外出許可を出してくれたの。お姉ちゃんの退院祝いをするからって』、そう教えてくれた。なるほどそういうことか。それならここにいてもおかしくはないんだけど……。 「だからといって何であんたがそんな格好してるのよ?」 「だって今日の優希はお姉ちゃんをお持てなしする側なんだもん。それではお客様、準備が整うまでしばしの間、ピアノの生演奏をお楽しみくださいませ」 『リクエストがございましたらお気軽に奏者までお声をお掛け下さいませ』そう言い残すと優希はぺこりと頭を下げ離れていった。
「店員さ〜ん、『We Wish You a Merry Christmas』お願いしまあぁぁぁ〜〜〜す」 演奏が終わったところで大きな声でリクエストをする知佳ちゃん。それまでのゆったりとした雰囲気から一転してピアノからはリズミカルな音色を奏で始めた。それから知佳ちゃんは演奏が終わるたびに次々とリクエストしていったんだけど、ちょっとだけ気になることが……。 「次ぃ〜『ホワイトクリスマ〜〜〜ス』」 あっ、まただ。ここまでくるとさすがに偶然とは思えない訳で。演奏が始まったところで楽しげに歌っている知佳ちゃんへ声を掛ける。 「ねえ知佳ちゃん、どうしてクリスマスソングばかりリクエストするんですか」 「そうかな? そんなことないとぜ〜んぜんないと思うけどなぁ〜〜〜♪」 口ではそう言いながらもその弾んだ口調はあからさまに肯定しているようにしか思えなかった。 「だって最初は『We Wish You a Merry Christmas』でしたよね? それから『ジングルベル』に『サンタが町にやってくる』、『もろびとこぞりて』、『Joy to the world』とやってきて、今掛かっているのは『ホワイトクリスマス』、ここまできたらそう考えるのが当然じゃないですか?」 「えへへ、バレた? でもでもやっぱり雰囲気を出すにはこれがバスト……じゃなかったベストかと思ってね。優希ちゃーん、準備はいいかなぁぁぁ〜〜〜」 「OKでーす」 「それじゃあミュージック、スタート☆」 知佳ちゃんの合図を皮切りに流れてきたのは『HAPPY BIRTHDAY TO YOU』、そして店の奥からは出てきた優希が持ってきたのは大粒の苺がたくさん載った大きなショートケーキ。 「はっぴーばーすでい・でぃあ・未萌ちゃぁ〜〜〜ん、はっぴーばーすでい・とぅ・ゆ〜〜〜〜〜」 曲が終わると同時に知佳ちゃんと一緒に拍手をする優希。 「私の誕生日? ちょっと優希、知佳ちゃんはともかくとしてあんたまで何言ってるのよ。私の誕生日は……」 「もちろん知ってるお☆ 十二月二十四日、クリスマス・イブだよね。でもでもその日はちょうど未萌ちゃん手術だったからお祝いできなかったでしょう?」 「それでクリスマスソングばかりリクエストしたんですか」 「えへへ、そゆこと♪ ほんとのこと言うとちゃんとした理由があるんだけど…ねっ♪」 にっこりと笑みを浮かべながら軽くウインクをする知佳ちゃん。けれどそれは私にではなく私からちょっと右にずれたところへと向けられているような気が……。 「え?」 突然、何かが私の視線を遮った。えっとこれは……紙、だよね? あ、何か書いてあるみたい。えっとなになに……『約束だったもんね、誕生日にはクリスマスソングをたくさん弾いてあげるって』って。そういえば佳音ちゃんとそんな約束をした……って、ちょっと待って。この紙……というよりは便せんって言った方がいいのかな? どこかでみたことがあるような……って、見たことがあるどころじゃないよ! そうだよ、間違いないよ。だってこの便せん、この便せんは……。慌てて顔を上げる。するとそこには優希と同じ衣装を身につけた佳音ちゃんの姿が……。 驚きのあまり頭の中が真っ白になっている私に更なるドッキリ(もしかして今日一日で一生分を使い切っちゃったんじゃないかな)があるなんて夢にも思わなかった。え、何が起きたのかって? それは……。 「未萌ちゃん、お誕生日おめでとう」 初めて聞いた佳音ちゃんのソプラノボイス、名前の由来が指し示した通りの美しい音色だった。
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