「宮下さん、こんにちは」 エレベータホールに隣接するナースステーションの中から顔見知りの看護婦さんが小さく手を振りながら声を掛けてきた。 「こんにちは」 「これからお茶会?」 「あ、はい」 「二人のことだから心配はいらないと思うけど、火傷には注意してね」 「わかってまーす」 ハンドリムに手を掛け、車いすを目的地へ向かって動かし始める。ここは藤ノ宮総合病院というこの辺りでは比較的大きな病院……とは言ってもここは都心から電車で二時間ぐらい離れた場所だから、大都市にある総合病院なんかと比べると規模は全然小さいんだけどね。私の病室はこのフロアの一つ上なんだけど、二日に一回はここに顔を出しているからこうして看護婦さんに声を掛けられるのも珍しいことじゃない。えっ、何でそう何度もこのフロアに来ているのかって? だってこの病院は入院病棟と検査病棟は別々の建物なんだから検査ってことはないはずだろうって。へー、詳しいんだね、この病院のこと。うん、確かにそうなんだけどね。でも、ちゃんと理由はあるよ。それは日課だから。ちょっと前までは一つだったんだけどつい最近になってもう一つ増えたんだ。そんでもってこっちが増えた方。何をするかというとこのフロアにある休憩室で佳音ちゃんと……って、ああぁぁぁーーーっ! こんなのんびりしている場合じゃないよ。急いで休憩室へ向け車いすを滑らす。 「ごめんねー、遅くなっちゃって…きゃっ!」 ようやく休憩室へ到着……ってところまではよかったんだけど、車いすの操作を誤った私は曲がりきれずにそのまま右前方、フットレストを入り口の壁にガツンとぶつけてしまった。その瞬間、慣性の法則と呼ばれるものが働くわけで。しかもそれは勢いが強ければ強いほど効力は増す一方なわけで。 (い、今のはちょっと危なかったかも) とっさにぎゅっと両手に力を加えたお陰でどうにか無事(それでも上体はかなり前のめりになったけど)だったものの、一歩間違えればそのまま床へとダイブなんて事態になりかねなかった。 (……あれ?) 気がつくと佳音ちゃんが床に座り込んだ状態で上目遣いの視線で私のことを心配そうに見つめていた。うわあ……いくらなんでもそれは反則だよ。同性である私でも思わずドキッとしちゃうぐらいだよ。これが男の人だったら、そうね……十人中十人があっという間にKO負けしちゃうだろうな。それぐらい破壊力のある表情だった。 そりゃそうだよね。だって佳音ちゃんってば、ただでさえすっごい美人なのに、お祖父さんがフランス人だから、えっと……クォーターって言うんだったっけ? その血が色濃く出ている影響なのかどうかは定かじゃないけど、宝石のような輝きを放つブルーの瞳にサラサラとした金髪のストレート、それに加えスタイルもすっごくいいし……あ、なんか言ってて虚しくなってきた。この話、もうやめやめ。それに佳音ちゃんをいつまでも床に座らせておく訳にもいかないしね。私は苦笑いを浮かべながら、 「えへへ、ミスっちゃった……って、ちょちょ、ちょっと佳音ちゃん、佳音ちゃんってばっ!」 それからしばしの間、私は佳音ちゃんに力一杯抱きしめられることとなった。
「ごめんね、驚かせちゃって」 隣に座っている女の子に向かってぺこりと頭を下げる。そう、この無茶苦茶かわいい子が一ノ瀬佳音ちゃん。 『ううん、私の方こそ過剰な反応しちゃって。それより本当に大丈夫なの? ぶつけてない?』 「うん、つま先も当たらなかったし全然大丈夫だよ」 『よかった。でも、そんなに急いで怪我でもしたら大変だよ。やっぱり私が未萌ちゃんのいるフロアに行った方が……』 「いいのいいの。気分転換も兼ねてるからね」 『そう? ならいいんだけど……あ、お湯沸いたみたい』 佳音ちゃんは立ち上がるとモクモクと水蒸気を噴き出している電気ケトルから予め用意しておいたカップにお湯を注ぎ始めた。 「それにしても佳音ちゃんってキー打つの速いよね」 『そうかな? そんなことないと思うけど』 佳音ちゃんは私と自分のカップをテーブルの上に置いてから椅子に腰掛けると、すぐさまカチャカチャとリズミカルな音を立てパソコンのキーを叩き返事を返してきた。 「ううん、絶対速いって。だって佳音ちゃん、キーボード見てないでしょう。ブラインドタッチって言うんだったっけ? そんなことできる人、私、初めて見たよ」 『覚えるまですっごく大変だったけど今はやってて良かったなー、そう思うの。だってこうして未萌ちゃんといっぱいお話しできるから』 それに手書きだとメモ用紙がたくさん必要だし、使った紙はそのままゴミになっちゃうし。そう付け加える佳音ちゃん。確かにパソコンを使えば紙とペンは必要ないし、使わないんだから当然ゴミも出ることないし。それに加え佳音ちゃんのキー入力の速さといったら目を見張るものがあって、普通にお話ししているのと何ら変わることのない速さだから会話が滞る事なんてちっともないしね。声を出すことのできない佳音ちゃんにとってパソコンはまさに打ってつけのコミュニケーションツールになっていた。 「それじゃあ今日は何の話を……って、痛っ!」 何故か私の頭を小突く佳音ちゃん。 「もうっ、いきなり何するのよぉ!」 『それはこっちの台詞! まさかもう忘れちゃったの?』 「なんか約束したっけ?」 『昨日の続きに決まってるじゃない、通ってる学校のお・は・な・し! 未萌ちゃんったら、うちの学院のことばかり聞いてちっとも話してくれなかったでしょう? 私、中学のときから女子校だったから、共学校ってどういうところなのかすっごく興味あるんだからね』 そういえばそんな約束したっけ。 「でも女子校の方が断然おもしろそうじゃん。まるで子猫が親猫に甘えるかのように『お姉様ぁぁぁ〜〜〜』なんて言いながらすりすり駆け寄ってくる後輩とか、『お姉様、クッキー焼いてきたんです〜』なんて言いながらピンク色のリボンの付いたラッピングを差し出してくる後輩とか、『お姉様、あの……これ読んでくださいっ』なんて言いながらラブレターを手渡してくる後輩とか、もう禁断の花園には秘密がたくさんって感じだよね♪」 『……未萌ちゃん、マンガの読み過ぎ』 うん、確かにそうかも。 『文化祭のあとじゃないんだから、そんなことある訳ないでしょう』 「え、文化祭のあと?」 ということは……。普段はないけれど文化祭の直後にはそういうことがあるってことだよね。なーんだ、やっぱりあるんじゃない。すぐさまつっこみを入れようかと思ったんだけど、もちろんそんなことはしない。だってそんなことしちゃったらせっかくのおもしろそうな話を聞けなくなっちゃうじゃない。 『毎年、演劇部が講堂で劇を発表するんだけど、出演者がね、どこかの歌劇団みたく男性の格好をして劇を繰り広げていくんだけど……』 「うんうん」 『友達とか先輩たちからは年々エスカレートしてるとは聞いてはいたんだけど……』 「ふむふむ」 『今年はその……ククク、クライマックスで……』 「それでそれで」 『女の子同士なんだけど二人ともその……男の人の姿で……キキキ、キスを……って何を言わせるのよおぉぉぉーーーっ!』 自爆した佳音ちゃんは顔を真っ赤にしながらも殴りつけるような勢いでキーボードを叩いた。 『もうっ、今日という今日は絶対許さないんだからね』 それから夕食の時間まで佳音ちゃんから質問攻め(しかも黙秘権なし)を受けることとなりました、ちゃんちゃん。
|
|