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まじっく・magic 作者:ちびとら

第1回   プロローグ


 壁に掛かっていた時計があと少しで一日の終わりを告げようとしていた。俺、三上司(みかみつかさ)は風呂を出ていつものように冷蔵庫を開けたところで軽く舌打ちした。
(あちゃー、すっかり忘れてた)
 『帰りがけにスーパーかコンビニでも寄ってこないといけないな』そう口にしたのは今朝学園へと出かける前に空にしたペットボトルを手にしたときのことだった。
(さてと、どうするかな……)
 風呂上がりにお気に入りのスポーツドリンクを飲むのが日課となっていたが、無い物ねだりをしても仕方ない。そう自分に言い聞かせつつも代わりになるものをあれやこれやと物色し始めたが、あいにく冷蔵庫の中には代わりとなるものはなかった。
(はあ……仕方ない、買いに行くか)
 ソファーに投げかけておいた普段着に着替えると、テーブルの上に置いてあった財布と家の鍵を無造作にポケットへとしまい込む。玄関で靴を履くとここから歩いて十五分ぐらいのところにあるコンビニへと足を向けた。

「有り難うございました」
 店員からお釣りとコンビニ袋を受け取り店を出る。鼻歌交じりに袋をブラブラさせながら歩き、十字路を右に折れようとしたところで突然人影が……。
「きゃっ!」
「うわあっ!」
 避けなくっちゃと思ったときには既に手遅れだった。ゴホゴホと咳き込んでしまうぐらい胸元を襲った痛み。衝撃で頭を揺すられたせいか途切れそうになる意識。待ってましたと言わんばかりに有無を言わさず現実の世界へと引き戻すケツに感じた激しい痛み。
 痛い。とにかく痛い。すっげー痛い。背中に感じる堅くて平べったい冷たい感触も体全体を包み込むような温かい感触もこの際どうでもいい。例えるなら……そうそう、九回裏ツーアウト、逆転サヨナラ満塁ホームランを狙ってフルスイングしたバットが当たったぐらいの衝撃だった。
「痛いじゃないか、こらっ!」
 理性なんて何処へやら、怒りのメーターを振り切っていた俺はものすごい剣幕で相手を怒鳴りつけた。
「えっと、あの、その……」
「一体何考えてるんだよ、おまえはっ!」
「ごごご、ごめんな……さい」
 ったく、モゴモゴ言いやがって女々しい奴だなー。それが火に油を注いだごとく益々いらだちが募る。
「いきなり飛び出してくるんじゃねえよ。危ないだろうがっ!」
「ぐすぐすっ……ごめんな……ひっく……さぁい」
「おいこらっ! 泣けば済むなんて思って……あ」
 泣いていた。女の子が泣いていた。しかも目と鼻の先で。怒りの沸点に達していた頭が急速に冷やされる。
「そのその、わたし……ひっぐ……わたし……」
「いや、あの、その……」
 動揺のあまりどう声を掛けていいのか困惑してしまう。そういえばどこかでこんなこと聞いてことあったっけなあー。
 女の最大の武器は『涙』だって……。
「こここ、こっちもそのなんだ、えっと……。そうそう飛び出してくるとわかっていればその……」
「ひっくひっく……。わたしこそ……ぐすっ……前もって飛び出しますってお知らせしておけばこんなことには……」
「いや、それは聞かなかった俺が悪かったわけであって」
「そんなこと……ありません。わたしこそメールとか電話とかでお知らせしていればこんなことには」
 端から見れば二人揃って言ってることが支離滅裂である。それから数回、いや十数回だったかな? こんなやりとりと続けた結果、女の子はぐすぐすと鼻をすすりながらも、どうにか話を聞いてもらえるぐらいまで落ち着いてくれた。
 落ち着いたところで状況を整理する。目と鼻の先にはかわいらしい女の子の姿、というよりも顔があった。整った顔立ち、すうーっと通った鼻筋、長い睫毛、淡くピンク色がかった頬、ルビーのような透明感のある深紅の瞳、肩口からするりとこぼれ落ちた黒髪から柑橘系の香りがしていた。今は心の底から申し訳なさそうな表情をしてはいるものの、にっこりと微笑んだらそれはそれはすっごくかわいいんだろうなあー、なんてちょっとだけ想像してみたりして。それにしてもこんなとびっきりの美少女にこうして抱きつかれるなんて、そうそう機会があるもんなんかじゃないから、もう少しだけ……って、あれ? あれあれ? 抱きつく? 誰が誰に? 俺がその子に……って、違う違う、俺じゃない。そもそも両手ともアスファルトを敷き詰められた地面に着いたままだし、それにどう考えたってこんなに白くて細くてきれいな腕してるわけないじゃないか。ということは……この腕、一体誰の……って、馬鹿か俺は。どう考えたって女の子の腕に決まってるじゃないか。ということは抱きついているのは目の前にいる女の子ということに……。状況が飲み込めたと同時に背筋をゾクッとしたものが勢いよく駆け抜けていく。
 こここ、これって無茶苦茶まずいじゃないかっ! この状態が続いたら例の発作が起きて……。すぐさま女の子へ声を掛ける。
「あのさ」
「ははは、はいっ!」
 うわぁ、声も無茶苦茶かわいい……ってそんなこと言ってる場合じゃないだろがっ。
「えっと、その……怪我、ない?」
「怪我、ですか?」
 女の子は何を言われているのかわからないといった感じだった。
「ぶつかったときにどこか痛めたりとかしてない?」
「あ……。えっとえっと、これといった痛みは特に……。そそそ、それよりも、その、あの、えっと……」
 上手く言葉にならない女の子。表情から察するに俺の具合を聞きたいのだろう。
正直言うと痛いのだが女の子を前にしてそんなこと言えるはずもなく(人はそれをやせ我慢という)全然大丈夫だと告げてから、
「それじゃ一人で起きあがれる?」
「起きあがる、ですか?」
「そうそう。いくら何でもこの状態だとその……問題があるだろうし」
「問題、ですか?」
 表情や口調から察するにまだ自分がどういう状況に置かれているのか理解していないようだ。軽く促してみる。きょとんとしたまま、女の子は素直に状況を確認し始める。待つこと数秒、
「ああっ! そのその……ごごご、ごめんなさぁい!」
 女の子は顔はおろか耳まで真っ赤にしながら起きあがると真横に座り込んだ。危機的状況を回避したところでほっと一息つく。よかった、今のところとりあえず何ともないようだ。もしあの状態が続いていたら……考えただけでぞっとする。もう一度深呼吸をし、気持ちが落ち着いたところで女の子に目を向ける。
 肩よりも気持ちちょい長めの絹糸のような艶のある黒髪、上は真っ白なブラウスに襟には大きめの赤いリボン、下はクリーム地にグレーのチェック柄のプリーツスカートに黒のオーバーニーソックス。胸元に刺繍してある校章みたいなものからこの辺りでは見かけたことはないが恐らくどこかの学校の制服なのだろう。
それにしてもほんとかわいいよな。もしも一緒のクラスで席が隣だったりしたら……それはちょっと嬉しいかも。
「あ、あの……」
「ほぇ」
 思わず変な声を上げてしまう。
「もしかしてその……わたしの顔、何かついてますか?」
「あ、いや、その、何もついてないよ、うんうん」
 まさか『実は見とれていました』なんて言えるわけもなかったので、話題を逸らすことにする。
「そういえば本当に怪我とかしてない? どこか痛いところがあるなら病院まで案内するけど」
「本当に大丈夫です。それよりも、その、あの……あ、あなたの方が……」
「あ、大丈夫大丈夫。本当に何ともないから心配しなくていいよ」
 痛みを堪えながら立ち上がる。それから地面にペタリと座っている女の子に向かって手を差し伸べる。
「はい」
「……え」
 差し伸べた手をじっと見つめながら女の子は首を傾げていた。
「いつまでもそんなところに座ってるわけにはいかないでしょう。だからはい」
「あ……。ありがとうございます」
 もちろんこんなことをしたらあまり体によくないってのはわかっている。でもやっぱり男だったらこんなシチュエーションではこういう行動に出るのは当然だと思うし、それに怒鳴りつけてしまったというせめてもの罪滅ぼしという気持ちが強かった。女の子は戸惑いつつも俺が差し伸べていた手に自分の手を重ねてきた。
(そういえば久しぶりだよな……)
 こうして女の子の手に触れるなんてかれこれ十数年ぶりなので、そのときの感触なんてこれっぽっちも覚えていないけれど、触れている手から伝わってくる感触といったらまるで焼きたての餅のようなやわらかな弾力だった。途中で手を滑らせるなんてお約束をやらないためにも、しっかりと手を握りしめてから女の子の体をゆっくりと持ち上げ始めた。
「あ……」
「ごめん、強すぎた?」
「い、いえ、そんなことは……。も、もう大丈夫です。ご親切にありがとうございます」
 女の子は自分の足で立ち上がったところでぺこりと頭を下げた。
「いえいえ、どういたしまして」
「あ、あの……」
 地面に落ちていたコンビニ袋を拾おうとしたところで声を掛けられた。
「うん?」
「やっぱり、そうだ……」
「は?」
「やっぱり、間違いない……」
「はい?」
 何がやっぱりなのだろうか? 俺には女の子が何を言ってるのか、さっぱりわからなかった。
「間違いないよ……ぜったい……ひっく……ぜったい間違いないよぉー。忘れるわけないんだから……わたし、あの日から……ひっく……ずっとずっと忘れたこと……ないんだからぁー」
「あ、あの……どうかしたの?」
 今にもわんわんと泣き出しそうになっている女の子に声を掛ける。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい。わたし……ぐすっ……わたし……」
『七海(なみ)っ、どこで油売ってるの!』
「ひゃあっ!!!」
 女の子はどこからともなく聞こえてきた声に激しく動揺していた。
「えとえと……ごご、ごめんなさいっ!」
 慌てて耳元から外したイヤホンらしきものに向かってペコペコと謝り始める。どうやらさっきの声の発生源はそれらしい。
『まったくもう。男といちゃついてないで、さっさと来なさいよ!』
「べべ、別にいちゃついてなんかいませんっ! ただただ、ちょっとお話を……って、ああっ!!!」
『あら、冗談で言ったのにまさかほんとだったとはね。それにしてもあんたにしては珍しいわね、男と一緒だなんて。まあいいや、それに関してはあとでじっくりと聞かせてもらうことにするわ。それよりもこっちはもうすぐ準備終わるから、なるべく早く済ませるのよ。じゃあね』
「でで、ですからですね、そういうのではなくてですね、そのその…………あ、切れてる。ちょ、ちょっと優風(そよか)さーん、勝手に切らないでくださぁーーーい」
 今の会話からするとどうやら交渉は一方的に打ち切られたようだ。
(あ、いけね。袋、袋)
 ついタイミングを逸してしまい、拾い損ねたコンビニ袋を再度拾おうと屈みかけたところで、
「ご、ごめんなさいっ!」
「……はい?」
 ぴょこんと勢いよく頭を下げたあと、女の子は放り投げられたバスケットボールでも奪い取るかのように両手で後頭部をしっかりと掴むとそのまま自分に向かって引き寄せ始めた。おいおい、ちょっと待て! このままだと……。次の瞬間、ガチンと音を立て歯ぐきに何か固いものがぶつかってきた。い、痛いぞ。さっきに比べればまだマシな方だが、それでも痛いものは痛い。くうぅーーーっ、続けざまにこんな痛い思いをするなんて厄日か今日は。一体今度は何だ? もうちょっとやそっとじゃ驚かない……って、あれ? 何でこんな間近に女の子の顔があるんだ? 鏡を見ているときだってここまで近く感じるようなことなんてないし、それにナルシストじゃあるまいし、鏡にキスでもしようと思わない限りこんなの無理なのでは? そんな気がした。あ、そういえば痛みのせいで気がつかなかったけれど、唇に何か温かくて柔らかいものが触れているような……。あれ? 急に感じなくなった。
「はあはあはあ……。ご、ごめんなさい。そのその……突然こんなことをしてしまって……」
「ぜえぜえぜえ……。え、何が?」
 さっぱり意味がわからない。そういえば何で俺、息なんか切らせてるんだ?
「でで、ですからですね、その……キキ、キスを……」
「ああ、キス」
 何だキスか。へえー、そういや生まれて初めてだけど、キスってこんな感じなんだ。よくキスってレモンの味がするとか何とか言うけどそんな味なんて……って、ちょちょ、ちょっと待てぇ。いい、今なんて言った。えっと、聞き間違えじゃなければ、確かえっとその何だ……キキ、キスって……。ええーーーっ! キキ、キスぅぅーーーっ! キ、キスといったらやっぱり天ぷらとかにして……じゃない! なな、何動揺してんだよ、俺。いくら初めてだからってそこまでおかしくならなくてもいいじゃないか。いいか、おい、とりあえず深呼吸でもして冷静になれ。すー、はー、すー、はー……。よ、よぉし! そそ、それじゃあ冷静になったところで、さっきまで触れていたのは、魚屋で買ってきたキス……って、おいおいっ! いい加減、目を覚ませよ!
「ご、ごめんなさいっ! 突然こんなことをしてしまって。でもこんなにもたくさんの魔力を頂いたお陰で、こちらの世界へと迷い込んでしまっている彼女たちを、また元の世界へと戻すことができます」
「魔力? 元の世界? 戻す?」
 ますますもってわけがわからなくなってきた。既に頭の中では無数のクエスチョンマークが手に手を取って円舞曲を踊っていた。
「お陰様でものすごく助かりました。申し訳ありません、ちょっと急いでおりますので今日のところはこの辺りで失礼いたしますね」
「え、あ、その……お構いなく」
 女の子はにっこり微笑んだあと、そっと目を閉じた。僅かに動く口元から聞こえてくる声はあまりにも小さかったので何を言ってるのかまではわからなかった。
(な、何だこれ……?)
 気がつくとあたり一体に無数の光の粒子がふわふわと飛び交っていた。あまりの出来事にただ呆然とその光景を見つめていると、光の粒子たちはある一点へと向かって動き出していった。その行き先……それは女の子だった。光の粒子がだんだんと集まり、ある形を創り出していく。そして創り出されたものを見た瞬間、思わず息を飲み込んだ。
(す、すっげー、きれい……)
 光の粒子が成したもの、言葉で言い表してみろと言われたら自信を持って『無理です』と即答できるぐらい幻想的な光を放つ一対の翼だった。もちろん本物を見たことないからこの表現が正しいのか、間違っているのかなんて判断できないけど、俺的には服装さえ除けば『空から舞い降りてきた天使』を見ているような気分だった。
「……司ちゃん、次にお会いするときはゆっくりとお話ししましょうね」
 女の子はぺこりとお辞儀をすると、夜空へと向かってジャンプをした。すぐさま視線を向ける。目に映ってきたのは、白と水色のストライプの下……もとい、ゆったりとした動作で背中にある双翼を羽ばたかせ飛んでいる姿だった。
「夢……だよな」
 そう、こんなの夢に決まっている。大体さ、こんな非現実なことが起きるわけないじゃないか。こんなのこうしてほっぺたをつねれば夢だってすぐわかる……あれ? あれあれ? おっかしいなー、痛いぞ。あ、そかそか。最近の夢は痛みまで表現できるようになったんだ。へー、ずいぶんと進歩したもんだ……って、そんなわけないだろうが! そうするとさっきまでの出来事は夢なんかじゃないってことに……。そんな押し問答を繰り返したいたせいか、この時点ではあることに気がつかなかった。そう、気がつかなかったことというのは、女の子に自分の名前を呼ばれていたことだった。

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