がくん、と体ごとその力の方に傾き、条件反射的に足が一歩踏み出される。
動ける。そう感じたときには、腕を引っ張られて走り始めていた。
顔を上げると、智樹少年の走るうしろ姿が目に入る。
腕を強く握っているのは、もちろん彼の手だった。
敷地内から飛び出し、家の前の路地へ。
そして塀の影に待ち構えていたのは、― スーツの男ではなかった。
白い、熊ほどの大きさの何か。
クリーム色の太い巻き角がその毛並みの中に確認できた。
両手足を地につけたその生き物は、出て来た2人の子供を自身の青い瞳で一瞥する。
と、少年はひらりとそれに跨った。
訳がわからない。何が起ころうとしているのか。
「早く、手!」
急かすように智樹少年に言われ、思わず手を差し伸べると、そのままぐいっと、
その生き物の背に引きずり上げられた。
「いいよ。走って!」
そう智樹が言うと、その獣は地を蹴った。
後ろからは、しつこくあの黒い手が追ってきている。
「次の交差点を右だよ。」
風の音が轟々と耳元で鳴り、やっと声が聞き取れるほどのスピードで走り続けている。
「スナちゃんが…、どうしよう。置いてきちゃった。」
少女が呟くと、どこからか返答が返ってきた。
「僕は、いますよ。」
それは前方からで、確かにサウォンの声だった。
前が見えるように身を乗り出してみると、自分たちが乗っている獣と目が合う。
「…スナちゃん!?」
確かにその見間違えようの無い青い瞳は、サウォンを思わせるものだ。
「人間ではない、と言いましたよね。」
獣の瞳がうっすらと細まる。
「スナちゃん……白熊だったの?」
「羊ですっ!!」
サウォンは激しく訂正した。そこは譲れないらしい。
不気味な程ひと気の無い十字路を速度を落とさず、後ろ足を踏ん張って右折する。
「そのまままっすぐです。突き当りをまた右折して5件目の家のドアをくぐります。」
さっきまでの智樹の柔らかい表情とは打って変わり、はっきりとした意思がある、
そんな顔をしていたのに千影は驚いた。
「ちーちゃん。」
ふと呼ばれ、とっさに少年を見ていた視線をそらす。
「…来てくれてありがとう。」
少年は、千影のほうを振り返って満面の笑顔で、そう言った。
―覚醒とは、総てを知ることも含んでいた。
未来の自分に何が起こったのか、自分が今、しなければいけないことは何か、智樹にと
っての知るべき総てのこと。
「うん…。」
少女は、照れくさそうにそう呟いた。
「大丈夫。僕が、ちゃんと次の時間まで連れて行くから。」
そう言って、もう一度前に向き直る。
「つかまってください!」
サウォンの大きな声と共に、少女たちは獣の背中に、頭を低くしてしがみついた。
瞬間、ボカン。という凄まじい音と共に鈍い振動が伝わる。
辺りに木製のドア片が派手に飛び散った。
抜けたそこは民家の玄関ではなく、道路沿いのパン屋の表。
「左っ!」
間髪いれず智樹の声が飛ぶ。
着地した前足を、軸にして大きく体を左に回転させた。
少し積もっていた雪に足をとられたが、何とか態勢を立て直す。
そしてまた続走し始めた。
―扉を抜けた途端、刺すような冷気に思わず肌があわ立った。
どうやら時期は冬に飛んだらしい。
手の甲に白い雪が舞い降りて、すぐに水となる。
「この先に大きな赤い鳥居のある神社があるんだ。
そこの社の引き戸が扉になってるはずだから。」
白い息を吐きながら智樹少年は、最後の指示を出した。
空は、重い灰色の雲で包み込まれている。
そのせいで、だろうか。少し薄暗い。
後方を追う黒い塊は、時を越えて尚じりじりとその距離を縮めてきていた。
不意に、少年はうしろを確認して、サウォンの耳に顔を近づけ、そっと囁いた。
「…サウォンさん、僕が巻き込んでしまったせいもありますが…。
必ず。必ず無事に、彼女を送り届けてください。…でないと、許しませんよ。」
そう言うと、智樹はひらりと走行中の獣から飛び降りた。
千影はあまりに驚いて声も出せず、少年のシャツを追った手は空をつかむ。
「少し足止めをするから。…サウォンさん、約束、守ってくださいね。」
着地すると振り返ってそう叫んだ。
そのまま鳥居のある路地を曲がり、千影の視界から少年の姿は消えた。
獣は少女を乗せて、まっすぐに本堂の社を目指す。
「少年に脅された…。」
「何か言った?」
ぽそりと呟いたサウォンの顔には、わずかに恐怖が垣間見えた。
…いえ。そう否定する頃には、社がしっかりと見えるまでになっていた。
最初くぐった時と同様に、ゆっくりとそれは開き始める。
「そのまま突っ込みます!」
その一言を最後に、サウォンは地を蹴り、社の階段を跳び超えて、
吸い込まれるようにドアの中に消えていった――。
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