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夢幻 作者:葉月 東

第4回   第一関門 幼少期

― 桜の香りがする。美しい薄桃色の花びらが、そこら中舞っていた。

太い幹の下には絨毯を広げたように滑らかな色合いが広がっている。

懐かしい、見覚えのある色彩。

「…で、どういうことなの…?スナちゃん。」

そんな綺麗な思い出に浸る間も無く、千影は自分に起きた異変を案内人に尋ねていた。

「えっと…多分、空間の時間に合わせて千影さんの時間も帳尻あわせされるよう

 ですね?」

確信の無い返事を返され、この人を頼っても大丈夫なのかしら、と来て早々に

薄い不安にさいなまれた。

扉を抜けてすぐに、 ―こんなにも地面が近かったかしら。 と、異変に気づいた。



現在の千影の身長は、おおよそ100センチ。



― つまり現実より退化していたのだ。

着ている服は懐かしく、幼稚園の頃のものだった。

「ところでスナちゃん、って…。」

「サンドウォッチを直訳して砂時計、でスナちゃん。」

きょとんと言い切った少女に、うなだれて、だからサウォンと呼んでくださいと…。と

言いかけた所で少女は走り出していた。

「行くわよ。スナちゃん!」

聞く気無しですか…。そうポツリと呟いて、少女のあとを追った。



   
心地よい春風が細い路地を吹きぬける。暖かい。

今は4月辺りだろうか。


「―ところで、何で私なの?」


ふと、少女がサウォンを見上げていった。

幼くなっている分、相当な身長差がある。

「…彼が呼んだんですよ。

 引きずり込まれる瞬間、貴方を強く思ったんでしょう。だから貴方の夢に現れた。

 そういう寸法です。」

青い瞳を細めて、白磁の髪の男は優しく言った。

「貴方に迎えに来て欲しかったんでしょうね。」

「元はといえば、スナちゃんのせいでこんな所まで迎えに行かされてるんだ

 けれどね。」

ずばりと言われて、サウォンは渋い表情になる。

― すみませんでした。

幼稚園児に心底申し訳なさそうに謝る大人の背中は、切ないほどの哀愁を帯びている。

そんなサウォンを背中に、千影少女は少し嬉しそうに笑みをこぼしていた。






―いつだって、待つ側だった。
 

 親は働きに出ている。仕方がないのだ。

 
 いつだって自分にそう言い聞かせる。


 待つのだっていいじゃない。帰ってくる人がいるんだから…。


 そんなきれいごとは要らない。


 苦しい。寂しい。この胸の痛さは…どうのり切ればいいの?


 幼い頃から、誰もいない家の中、いつも一人でベッドに入っていた。


 布団を被って『一人』という耐え難い恐怖と戦うのだ。


 音のない空間。人の気配がない部屋。…夜は必ずやって来る。


 いつからか、暗闇が嫌いになった。気持ちが落ち着かないのだ。


 ざわざわと体の奥から、閉まっておいたはずの恐怖がうごめきだす。


 もう、諦めていた―。






「千影さん、着きましたよ。」

突然かけられた声に一瞬びくりと肩を震わせて、顔を上げた。

「あぁ、本当だ。」

いつの間にか、『春日』と彫られた標識の家の前で足は止まっていた。

「ちょっと待っててね、スナちゃん。」

明るく言うと、少女は玄関先に走っていった。

だから、スナちゃんは…。そう消え入るように言いながらサウォンは千影のうしろ姿を

見送った。



ピンポーンと、千影の自宅のと同じ聞こえのいい呼び鈴を鳴らす。

はーい。とそれに答えるように智樹ママの若々しい声が聞こえてきた。

ドアが少し開くと、その隙間から女性が顔を出す。

「あら、千影ちゃん!智樹ね、待ってて今呼ぶから。」

いつ見ても可愛らしい人だと思っていたが、この頃のママさんは、

とてもふわりとした良い空気を漂わせていて心の底から憧れる。

程なくして、一度閉まったドアが再びゆっくりと開いた。


「あ、ちーちゃんか。」


出て来た少年は、千影を確認してにこりと笑った。

そうだ。この頃はまだ私と同じくらいの身長でこんなに幼い顔をしていたのだった。

顔を見ただけなのに、思わず笑顔がこぼれた。

『千影さーん、時間がないので浸らないで下さいよー。』

塀の陰から、サウォンが小さな声で囁きかけてきたのが耳に入り、我に返る。

そうだった、私たちには時間が無いのだ。

急いでポケットに入れた飴玉を取り出す。

「智き…でなくて、ともくん。これ、あげる!」

少し唐突だが、この際そんな流れはどうでも良かった。

赤い包装で包まれた飴を差し出す。

「え、貰っていいの?ありがとう。」

智樹少年は一瞬戸惑いを見せたが、素直に飴玉を受け取った。

が、彼はポケットにそれをしまってしまう。

「今食べて!」

ずいっと身を乗り出して、千影は必死に食べるように促した。

相当動揺しているようだが、少年は、わかったと頷いてポケットから手を出し包を

開く。

「じゃあ、いただきます。」

そう言って、素直に飴を口の中に放り込んでくれた。

ひとまず第一段階クリア。と、千影と塀の影に隠れている男は、ほっと息をついた。



―その時だった。玄関の左右に位置する庭の土が、ボコリと浮く。



この光景は、見覚えがある。

確か、今朝の…夢。


「走ってください!」


塀の方からサウォンの焦った声が聞こえる。

何が起ころうとしているのか、それは安易に想像できた。

ボコボコッとさっきよりひどく大きく土が浮き上がっていく。

「あ…。」

今朝のフラッシュバックが頭を支配して足が動かない。

土の浮いた間から黒い粘度のある何かが、ずるずるとゆっくり這い出してきた。


駄目だ。捕まる…。


そう思った瞬間、右腕が強い力で引っ張られた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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