和樹は病院の待合室のソファーに腰掛けていた。 膝の上にひじを置き、手を強く組んでいる。 和樹の視線は一点を見つめていた。『手術中』と赤い光がついている所を凝視していた。
のどが渇いた。お腹が減った。すごく眠い。 そんな感情はとうに忘れ去り、今はただ祈っているばかりだった。
「……………水木……!」
和樹がそうつぶやいたとき、病院の出入口の自動扉が開いた。 すでに病院自体は閉まっている時間だった。それでも入ってこられるということは、早百合の親類に違いなかった。
さきほど、和樹は早百合の生徒手帳から自宅の番号を探して、電話を掛けた。 『早百合さんが、大変なんです!』それだけしか言ってないのに、その家族は事情を察したように『分かりました!どこの病院ですか!?』と訪ねたのだった。 それから20分。やっと早百合の家族が病院に駆けつけてきたのだ。
「きみが、私の家に電話を掛けてくれた、飯島君だね?」
「………ええ、そうです。」
和樹が視線を声のした方に向けると、そこには50前後の男性と女性が立っていた。 早百合の両親だと和樹は思った。それを裏付けるように、娘はどこですか、と和樹に尋ねたのだった。 和樹は黙って視線を『手術中』のランプのついた部屋に向ける。 そうですか、と早百合の父親は落ち着きなく言った。
「………水木――早百合さんの病気は、いつ頃からなんですか…?」
和樹は、ここでは水木というより早百合と言ったほうが良いと思った。 早百合の母親は戸惑った表情をして、父親に訴えかけるような仕草をした。 あなた、こんな見ず知らずの子に教える必要はないわよ。母親の目はそう語っていた。 しかし父親は母親をなだめた。和樹を見据え、威厳ある口調で言った。
「お教えしましょう。早百合の病気について…。」
「あなた!」
母親が遮るように言ったが、父親は厳しい目付きで母親を見た。
「彼は早百合を助けてくださったんだ。話くらいするのが礼儀だろう。」
話は、病院の待合室で始まった。 父親は懐かしそうに虚空を見つめながら、口を開いた。 和樹はそんな早百合の父親を見ていた。
「あの子の病気が発症したのは、2年前の春でした。」
父親は物静かな口調で言う。 母親はこの場にはいなかった。早百合が手術を受けている部屋の前で、元気なく待っているのだ。
「今は高校1年生ですから、中学の2年生のときです。あの子――早百合が家に帰ってくるなり、胸が苦しいと言ってきた。」
「………………。」
「あの頃は私たちも、早百合は元気な娘だと思っていました。そんな娘が辛そうな顔で、苦しいと言うものですから、急いで病院へと連れて行きました。」
「……そこで、病気を宣告されたんですか?」
「ええ、なんでも未だに名前すら付いていない病気だそうで…。いわゆる『不治の病』というやつです。早百合は、その病気に侵されていたんです。」
父親は胸元から煙草を取り出した。
「良いですか?」
「どうぞ。」
和樹がそう答えると、ライターを手にして火を付けた。 一息吸って、白い煙を吐き出した。そして灰皿の上で煙草を叩くと灰がその上に落ちた。
「その病気というのは、なんとも複雑なものでして…。まぁ、簡単に言えば、一種の心臓病なんです。心臓の機能がどんどん低下していき、最後にはその機能自体を失ってしまう。」
煙草を灰皿に押し付けて、火を消した。 父親はもう一本取り出そうとする仕草をしたが、思いとどまって止めた。 和樹が回りに漂う煙草の煙を払っているのを見たからだろう。
「ですから運動したり興奮したりして、心拍数が上昇すると発作が起きることも度々でした。でも、今回のような事態は初めてです。よっぽど、君と興奮する話でもしていたんでしょうな…。」
和樹は胸が痛むのを感じた。確かに彼女は興奮していた。 だが、それは自分が彼女を悲しませたから。傷つけたから。泣かせてしまったから。
父親は冷たい目で和樹を見た。 自分の娘の病気を発作させたのはお前だ、と言わんばかりの視線。 しかし和樹はそれに弁明をするつもりは無かった。 責任を感じていた。早百合が倒れたのは、自分のせいだった。
「あなた。」
待合室の入り口に早百合の母親が立っていた。 彼女が父親を呼んだ時の目は、いくぶん安堵の色が伺えた。
「手術が終わったわ。早百合は、寝てる。明日には面会も出来るそうよ。」
「……そうか。」
心の底から安心したように父親は言った。 そうして立ち上がると、和樹の肩に手を乗せた。 和樹は早百合の父親を見上げる。
「家まで送っていこう。私の車は外にある。ついて来てください。」
早百合の父親はそう言って、足早に外へと向かった。 和樹は入り口に立っている早百合の母親に目をやった。 だが彼女は視線を合わせるのを嫌がるように、ソッポを向いてしまった。
「……失礼します。」
和樹はそう言って、母親の横を通り過ぎた。 今は何も話してはくれないだろう。和樹はそう思っていた。 時期がきたら、必ず話そう。和樹はそう心に決めて、病院を後にした。
車で家に帰る道中、和樹と早百合の父親は必要最低限のこと以外は話さなかった。 家の場所、道順だけを伝えて、それきりだった。 家について車から降りる時、ありがとうございますと一言だけ言って、ドアを閉めた。 車はエンジン音を響かせて再び病院の方角へ走行を始めた。
和樹はベッドの上で寝転がっていた。 明日には面会できるそうよ、早百合の母親はそう言っていた。 明日、病院へ行って早百合と話そう。和樹はそう決心してから布団をかぶった。
布団の中での暗闇の中で、和樹は早百合の言葉を思い出した。
あたしも、君と同じように、生きてるんだ…。もうすぐ死んじゃうけど、まだ、死んでないんだ。まだ、普通の人間として、笑っていたいんだ……!
彼女は、死んでいない。 生きているんだ。自分と同じように。 まだ伝えられるんだ。自分の想いを。 必ず伝えよう。
心の中でそう思うと、睡魔が和樹の意識を奪っていった。
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