深夜の病院。 和樹は早百合の眠るベッドの横に佇んでいた。 彼女の両親もいるのだが、彼らは疲れのためか寝てしまっている。 和樹だけが早百合の顔を見つめていた。
「………水木。」
手を握りながら、つぶやいた。 一応、病状は安定したということで延命装置は外されていた。 早百合はとても安らかな表情で寝ている。
「……覚えてるか?」
早百合は寝ている。 彼女の両親も寝入っている。 和樹は独り言のようにつぶやいた。
「あの桜の下で出会って、写真部に誘われて、水木が好きになって、今こうしてここにいる。」
目頭が熱くなるのを感じたが、構わない。 どうせ誰も見てやしない。
「あの桜が無かったら、俺たちは出会ってなかったかも。」
早百合の寝顔は変わらない。 規則的な呼吸音が響く。
「本当に水木の言うとおりだ。水木は、桜みたいだ。」
涙が頬を伝っていくのを感じた。 それでも和樹はそれを拭おうとはしなかった。
「桜みたいに、優しくて、綺麗で。……儚くて。本当に一瞬だけ輝く桜みたいだ。」
「……………和樹君が泣いてるの、初めて見た。」
早百合が目を開けた。 弱々しく、微かにだが、確かに開いた。
「……起きてたのかよ?」
「……うん、ちょっと前にね。」
早百合は和樹を見つめた。 泣いている和樹を早百合は嬉しそうに眺めた。
「……なんだよ?」
「だって、あたしの為に泣いてくれたの、初めてでしょ?」
前にも何度か泣いたことがあるよ、と言うと早百合は、嬉しいなと答えた。
「………もう、あたし、死んじゃうね。」
「……そんなこと、言うなよ。頼むから。」
和樹を見て微笑む早百合。 和樹は早百合を愛しく感じた。 早百合の笑顔が、和樹は大好きだった。
「もっと、色んな写真を撮りたかったな。」
「え?」
「もっと色んなものを見て、感動したかった。あたしの心を――生きてきた証拠を残したかった。」
和樹の中で、何かが生まれた。 早百合の言葉を聞いて、早百合の為に出来る事をしたいと思った。 そして、それはすぐに実行された。
和樹は早百合の体を両手で持ち上げた。 そうして病室を出て行く。
「ど、どうしたの、和樹君?」
弱々しい声。 和樹は歩く速度を速めて、進んでいった。 病院の非常口から外へ出る。 そして駐輪場の和樹の自転車の後ろに早百合を乗せた。
「行こう、水木。最後の思い出作りだ。」
和樹は自転車の速度を上げて、発進した。
到着したのは、あの小高い丘の場所。 今夜は雲もなく満天の星空だった。
「うわぁ、綺麗だなぁ。」
早百合は視線を空に向けて言った。 和樹もそれに同意して、自転車を止める。 早百合をゆっくりと降ろしてあげた。
「ねぇ、和樹君?」
「なに?」
「きみが、あたしの事を好きになったのって、いつ頃?」
答えにくい質問だが、残された時間は少ないのだ。 和樹は正直に答えた。
「写真部に誘われて、写真は心で撮るものだって言われた時だよ。」
「……そっかぁ。じゃ、あたしの勝ちだね?」
「え?」
「あたしは、君に出会った入学式の時から、君が好きだった。一目惚れってヤツ。」
早百合は屈託のない笑顔で言った。 顔は青ざめているが、微かに紅潮したのが和樹には分かった。
「なぁ、水木。」
「ん?」
「目、閉じて。」
素直に早百合は目を閉じた。 そして早百合が、「何するの?」と問いかけようとした瞬間だった。
お互いの唇が触れ合った。 軽く触れて、離れた。和樹は早百合を、早百合は和樹を見つめていた。 そして再び口付けをした。 今度は長い、長い口付けだった。
そしてしばらくの時が経った。 やっとのことで、お互い離れた。
「和樹君の、ばかぁ。」
早百合は、ハァハァと息を切らせている。 それに、涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
「こんなにドキドキさせて…。あたし、死んじゃうかと思った。」
早百合は和樹を見つめながら言った。 彼女の左手が、胸を抑えていた。
「……あたしを殺そうとした、お返しだよ。」
そう言って、早百合は和樹に口付けをした。 再び、長い時がそのまま過ぎ去っていった。
そして口付けを終えようとした時には、彼女の体はぐったりとしていた。 和樹は慌てて早百合を支える。彼女は相変わらずの笑顔だった。 和樹は早百合の手を触れた。冷たさを、和樹は手に感じた。 お互いが、手と手を強く握り締めた。
―――――和樹君。
―――――なんだよ、水木。
―――――……最後くらい、早百合って呼んでよ。
―――――うん。わかった。
―――――大好きだった。きみの事が。
―――――俺も、早百合が大好きだった。
―――――2つだけ、お願い事、してもいいかな?
―――――ああ、いいよ。
―――――1つ目。写真、撮り続けて。きみが生きた証を、撮り続けて。
―――――ああ、わかった。
―――――じゃ、最後の願い事。あたしが死んだら、あたしの事、忘れて。
―――――……早百合。
―――――死んじゃうあたしが、きみを縛り続けるわけには、いかないから。
―――――わかった。努力……してみる。
―――――うん。ありがとう。本当に、今まで、ありがとう。
―――――……早百合…。
―――――じゃあね、和樹君。あたしの大好きな人。
―――――……早百合、そんなこと言うなよ。なぁ?
―――――………………。
―――――早百合、早百合!!………早百合――!!
それ以降、早百合が目を開けることはなかった。 和樹は満天の星空の中、早百合を抱いて、涙を流した。 早百合の顔は、安らかな、優しい顔で、笑っていた。
……早百合。
最後の願い事は、守れないよ。
俺は早百合を忘れない。絶対に。
俺が早百合の意思を継いで、早百合が撮り続けていたかったものを、撮るから…。
最後の約束だけは、破らせてくれ。
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