和樹は早百合の病室を出た。 すでに2時間弱もの時間を彼女の病室で過ごしていた。 彼女の話によると、明後日には学校にも行けるらしい。 和樹は軽い足取りで病院を出ようとしていた。 だが、後ろから呼び掛けられて振り返る。 そこには早百合の母親が立っていた。
「少し、よろしいですか…?」
はい、と答えて和樹は母親のあとを追って病院の中へと戻っていった。
自動販売機に五百円玉を入れて、母親はお茶のボタンを押した。 ゴトン、とお茶が出てきてそれを和樹に渡した。
「娘は――早百合は、もうすぐ、いなくなります。」
死ぬや亡くなると言わないのは親心というものだろうか。 母親はお茶をもう一本買って、口を開いて一口だけ飲んだ。 和樹も渡されたお茶を飲み始めた。
「早百合は、私たち夫婦の間に生まれるにしては、素晴らし過ぎる子でした。」
和樹は母親を見据えていた。 彼女は弱々しくうなだれて、ボソボソとつぶやくように言った。
「あの子は私たちの宝でした。だから2年前に病気を宣言されて、私たちは呆然としました。」
母親の声が涙ぐんできた。 和樹はもう一口お茶を口に含んだ。
「だからこそ、私たちは早百合を傷つけないように大事に扱ってきました。あの子が悲しまないように…。」
和樹は飲み干した缶をゴミ箱に捨てるために立ち上がった。 母親はうつむいたまま、少し震えているようだった。
「……早百合さんと病気について話したことはありますか?」
「………いえ。」
あるわけないでしょう、と訴えるような目つきで、母親は和樹を睨んだ。 和樹も母親と視線を合わせる。彼女の瞳は、疲れが滲み出ているようだった。
「だって、病気の事だけでも辛いのに、家に帰ってまでそんな話をしたくないはずでしょう?」
「……そうですね。でも、彼女は――早百合さんは気を遣われることを望んじゃいなかった。」
和樹がそう言うと、母親は身を震わしながら和樹を睨んだ。 母親はあからさまに怒った口調で和樹を罵った。
「あなたに何が分かるんですか!?早百合の悲しみが、私たちの悲しみが、あの子が私たちの愛する娘だったってことの、何を!?」
金切り声を上げた母親は力なくソファーに座り込んだ。 目からは、透明な液体が流れている。和樹は母親を見据えて言った。
「……もう、過去形なんですね。」
明らかに当惑した様子で母親は和樹を見た。 和樹は構わずに続けた。
「『でした』とか『だった』とか、そんな言葉を使って…。彼女は、まだ死んじゃいない。生きてるんだ、俺やあなたと同じように。」
母親は何かを言おうとして、口をパクパクさせているが何も言えないでいた。 和樹には、見据える先にある女性の瞳がひどく弱々しく映った。
「早百合さんを分かっていないのは、あなたです。………失礼します。」
そう言葉を繋いで、和樹は一礼をしてから足を進めた。 そのまま後ろを振り返ることなく病院を出た。 早百合の母親は今どんな顔をしているだろう。 見たい衝動に駆られたが、和樹はそれを振り切って自転車をまたいだ。
そして、その日から2日が過ぎた。 和樹は心躍らせながら学校へと向かっていた。 早百合に会えるかもしれない。その思いが学校へと和樹を急がせた。
1校時目が始まってから6校時目が終わるまで、とても長いように和樹は感じた。 時計に目をやっても、なかなか進まない。一秒一秒がすごく長かった。
チャイムが鳴り響いた。 6時間目が終わり、生徒たちはいつも通りに部活やバイトに行く。 和樹もその流れに乗って教室を出た。 目指すは、写真部部室だ。
大きく『写真部』と書かれたドアの前に立つ。 そして恐る恐るそれを開けた。中は、真っ暗だった。
「水木、来てないのかな…。」
いつもなら必ず和樹よりも早く来ている早百合。 それが今日はいなかった。もしかしたら、まだ病院のベッドで寝ているのかもしれない。 和樹はきびすを返して、部屋を出ようとした。病院へと向かおうとしているのだ。
「あっ、和樹君。今日は早いね。」
後ろから、聞きなれた声がした。 ドアの前には見慣れた制服をまとった女の子が一人。 早百合が笑顔で佇んでいた。
「……水木。」
「心配させてゴメンね。もぉ大丈夫だから。」
大丈夫なわけがなかった。 早百合は死ぬ。しかも、もうすぐ。 和樹は詳しい期間を聞いてはいない。 聞く必要がないからだ。和樹は早百合を見つめて言った。
「……さ、部活しようぜ。季節の変わり目だから、きっと良い写真が撮れると思うよ。」
「うん、そうだね。」
早百合は部室内に歩を進めて、机の上にあるカメラを手に取った。 それを上に掲げて目を細める。そして早百合は和樹にカメラを向けて、構えた。 シャッターを切る音がした。
「……俺?」
「うん、あたしが撮りたいもの。」
「どうして俺なの?」
早百合は照れくさそうに笑ってから言った。
「きみが、好きだから。あたしの命が続くまで、きみと――和樹君と一緒にいたいから。」
「……俺も。俺も、水木と一緒にいたい。ずっと笑いあっていたい。」
和樹は思った。 早百合が死ぬまで、自分が一緒にいてやる、と。 彼女が寂しくないように、悲しくないように自分が支えてやるんだ、と。 死が2人を別つまで――死が2人を別けたとしても、早百合を愛し続ける、と。
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