ここは病院の一室。 白く清潔なベッドには、美冬が静かに眠っていた。 規則的な寝息。この場面だけを見るのなら、別段変わったところなど見受けられない。 だが、事件は昨日の夜だった。 美冬の家の近所の空き地で、彼女は襲われた。
目を瞑れば、昨日の映像が蘇えってくる。 破かれた服。汚れた顔。犯された体。 どれもこれも思い出したくないものばかりだった。 だけど、目を瞑れば浮かんでくる映像だ。だから俺は昨日寝ることはなかった。
「……ねむ…」
彼女の両親はベッドの脇で首がコクリコクリと動いている。 美冬の母親も父親も、精神的に疲れているのだろう。 盛大なあくびをしながらそう考えた。
テスト勉強でさえ徹夜などしたことはない。 初めての徹夜。さすがに眠気が襲ってくるのは仕方がないことだ。 起きていなくちゃいけないのに、俺の意識はどんどん遠くなっていく。 いつの間にか、俺は完全に眠りに陥っていた。
* * *
「青田君!青田君!」
「ん……あ…?」
肩を揺さぶられている感覚で目覚める。 目を開けて目の前にいたのは、美冬の母親の血相を変えた顔。 怯えているようで、不安がっているような表情だった。
「……どうしたんですか?」
大きく伸びをして、俺が尋ねた。 すると彼女は震えている指でベッドを指差した。 そこには誰もいなかった。だけど、掛け布団はめくれているので美冬が起きたのだろう。 彼女は何をそんなに怯えているのだろう。
「美冬が…!美冬が!」
目に涙を浮かべながら、彼女は叫んだ。 俺の体が硬直していくのが分かる。 何が起こった。美冬にまた何か起こったのか。
「美冬が!いなくなったの!」
堪えきれず溢れ出た涙が母親の頬を伝っていく。 それを隠すように顔を手で覆ってしまった。
「トイレとか散歩の可能性は!?」
俺の声。 やたらと声が大きいのは、状況が状況だからだろう。 母親は首を横に振った。
「探しました!でも、どこにもいなくて!」
俺は、何か悪寒のようなものを感じた。 昨日の事件と同じような悪寒。だけれど、今回のは昨日とは比較にならない。 体全体が震えて、まるで俺の体ではないみたいだ。
「あたし…!もうどうしたらいいか!」
泣き崩れている彼女を置き去りにして、俺は病室を出た。 病院を出て一応辺りを見回す。しかし美冬の姿が見つかるはずもなかった。 急いでバイクが停めてある駐車場へ行く。エンジンをかけて走り出した。
「美冬ッ…!」
急いで彼女を探し出すのはいいが、何も情報がない。 少しもアテがないのでは探し出せるわけもない。 そんな時、突如俺の携帯がバイブする。 病院にいる間はマナーモードにしていたために音が出ることはなかった。 バイクを道の脇に止めて、液晶画面を覗くと、『美冬』からのメールだった。
『あたし汚れちゃった』
無機質な文字で書かれた言葉。 それだけでも、美冬の気持ちが手に取るように分かった。 彼女は今苦しんでいる。 彼女のメールを急いで返信する。
『今どこにいるんだ?』
俺がそう送ると、三十秒後くらいに返事が返ってきた。
『ゴメンね、リョウ君。あたしの最初はリョウ君にあげたかったのに』
美冬から送られてくるメール。 俺には重すぎるものだった。彼女が苦しんでいるのは分かる。 だけど、その苦しみの中の悲壮感や絶望感は、俺には想像も出来ない。
『どこにいるんだ!?』
同じような内容を返信した。 俺に出来ることは、彼女の傍にいることだけだ。 すると再び三十秒ほどでメールを受信した。
『ゴメン。ゴメンね。……さようなら』
それを見て、俺はいても立ってもいあられなくなった。 急いで彼女の電話をしてみる。しばらくの着信音の後、美冬が電話に出た。
「美冬ッ!」
『……リョウ君?』
虚ろな美冬の声。 今どこにいるんだ、俺は電話口に向かって叫んだ。 電話の向こうからは、美冬の乾いた笑いが聞こえてきた。
『アハハ…。最後にリョウ君の声聞けて……良かった…』
「おま…ッ!何言ってるんだ!どこにいるんだッ!美冬ッ!」
俺がどんなに叫んでも、俺の気持ちは伝わることはなかった。 彼女は俺の言葉を聞き流したかのように言った。
『バイバイ、リョウ君』
「美冬ッッ!!」
そこで、電話が切れた。 ツーツーと電話が鳴っていた。 俺は持っていた携帯をポケットに入れて、バイクを走らせた。 アテはない。だけれど、止まるわけにはいかなかった。 真っ白になった頭のままで、俺は街を駆け続けた。
しばらくして、遠くに人だかりが出来ているのが見えた。 救急車のサイレンの音が、イヤに耳に響いてくる。 近くにバイクを停めてそこへ行った。 そこには、血が手足が散乱していた。 そして彼女がいた。上を見上げればそこには二十メートルはあるであろうビル。
「……美冬…」
俺はあまりにも無力だった。 彼女が苦しんでいるのに、何も出来なかった。 そしてその結果がこれだ。彼女は人ではなくなった。 ただのたんぱく質の塊になってしまった。
「……美冬…」
俺は、彼女の体に一歩近づいた。 血が水溜りを作っている。その中に踏み込んだ。 彼女の肉片を近くで見つめた。血だらけで見るも無残な姿。 だけど、確かにそれは美冬だった。
「……美冬…」
血の水溜りの中で、俺は膝をついた。 肩を落として地面に手をついた。血が俺の手のひらについていく。 彼女の肉片を出来るだけ集めて、俺はそれを抱きしめた。 愛しかった。人でないものでさえ、俺はそれを愛しく想った。 そして不意に涙がこぼれた。それが血の水溜りの中へ音もなく吸い込まれていく。
「……ああ………美冬…。 ああ……あああ……美冬………美冬…!!」
叫んだ。 それは喉からではなかった。 腹から、腹の奥底から湧き出た、どす黒い怨念の叫びだった。 後から後から出てくる、絶望感、虚無感、悲壮感、恨み、呪い、怨恨の念…。 止める事が出来なかった。止めたくもなかった。 この瞬間、俺は全てを憎んでいた。この世の全てのものを。
「ウオオォォォォ!!!」
救急車のサイレン。 野次馬たち。 空。雲。空気。命。 美冬を穢(けが)した奴。美冬を犯した奴。 そして、美冬さえも憎んだ。 呪った。
俺はこの時に、人であることをやめたのかもしれない。
* * *
美冬を襲った奴は、その後すぐに捕まった。 奴の体液が美冬の体には残っていたから。 それですぐに犯人は見つかったそうだ。 赤石 惣介。それが奴の名だった。
『えー、今日未明、○○市の女子高校生を襲った男が逮捕されました』
ブラウン管越しに俺はそれを見入っていた。
『赤石 惣介、三十二歳。 職業は転々としており、警察も男の事情聴取を進めているようです』
「……赤石 惣介…」
俺はその言葉を脳裏に焼き付けた。 そしてブラウン管には男の顔写真も映し出されていた。 頭はハゲていて、髭(ひげ)は濃い。目もトロンとしていて何かの中毒者のようだった。
コイツが。コイツが美冬を。
そう考えるだけで、俺の拳が強く握られていた。 手のひらから血が滴る。爪が食い込んで、皮膚を貫いたらしい。 だけれど、力を抜くことなど出来るはずもなかった。
おそらくコイツは四,五年の刑務所暮らしだろう。 もしかしたらもっと早く出てくるかもしれない。 奴が罪を償って、刑務所から出てくるんだ。 だけど…。
奴が本当に罪を償うのは、刑務所を出てきてからだ。
俺は固くそう誓った。 その誓いが果たされるのなら、俺はいくらでも待つ。 奴に、赤石 惣介に、俺が裁きを下す。 その時に思い知らすんだ。奴の罪の重さを。 美冬の仇をとるんだ。
|
|