俺の彼女は少し普通ではないかもしれない。
だけど普通といえば普通なのだ。 笑えば可愛いし、泣いている顔は女らしい。 麻月 美冬。彼女の名前。 綺麗な印象の名前と、それに負けない顔立ちだと思う。 声も、俺にとっては心地よいハーモニーのようだ。
俺たちが付き合ってから二年。高校一年からで、今は三年生だ。 だけれど、彼女には俺でも知らない暗い過去もあったりする。
「あのね、リョウ君?」
青田 亮介。俺の名前だ。 リョウスケだから、美冬にはリョウ君と呼ばれている。 小さい声で俺を呼び、彼女はおもむろに自分の手首を見せてきた。
「見て、これ。」
彼女の手首には、数限りない傷跡。 世間ではリストカットと呼ばれているものだ。 俺も初めて目にした。生々しいその傷は、いまだ癒えぬもののように見えた。
彼女は、俺と出会う前までは自殺未遂の常習犯だったらしい。 何か悲しかったり辛かったりすると、ナイフを持って新たな傷を作っていた。 彼女はそう言っていた。
「もうやっていないのか?」
俺が尋ねる。 彼女は躊躇いながら、首をかしげた。
「ん〜。たまに…かな。 でもずいぶん回数は減ったよ。リョウ君と会ってからはね。」
その言葉を聞いて、俺の心の何かが身震いした。 彼女の手を掴む。そして傷だらけの手首に優しく触れた。
「もう二度と……そんな事するなよ。……俺のために」
「リョウ君のため?」
「そう。そんな事してたら、死んじゃうかもしれないだろ? そんなの俺はイヤだからな。俺のために、金輪際そんな事はしないって誓ってくれ」
俺がそんな事許さないからな。 俺がそう言うと、彼女は優しく笑った。 なんだか、その笑顔がやけに悲しそうに俺の目に映った。
「リョウ君、ワガママだね」
「ワガママなんて上等だよ。美冬がいなくなるのに比べたらな」
彼女の顔が急に赤くなった。 それもそうだろう。言っている俺だって恥ずかしいんだ。 しかも美冬は人一倍シャイな奴だから、なおさらだろう。
「……うん。わかった」
彼女が、力強く、確かにそう言った。 俺の勘違いじゃなければ、彼女の瞳には涙が溜まっていたと思う。 俺の自惚れじゃなければ、「好きだよリョウ君」と彼女が小さく呟いた。
そして俺たちは、恋人同士なら当たり前な事をした。 お互いに近づいて静かに両目を閉じたんだ。 優しく触れ合った唇が彼女への想いを大きくさせる。
「も一回」
ねだってみたりもする。 すると美冬は顔を真っ赤にした。
「ダメ、今日は終わり!」
恥ずかしがり屋の美冬は、こういう事を言うんだ。 こういう彼女を見ているとリストカットなんてウソのように思えてくる。 だけど事実は事実だってことも分かっている。
「リョウ君、これ…」
美冬がポケットの中から取りだした物。 それは小型のナイフだった。しかも結構、年季入りのようだった。
「もうリストカットしないよ。 だから、これ預かっといてくれる?」
ああ、と俺はそれを受け取った。 彼女の言葉、彼女の瞳、それら全てが語りかけてくる。 彼女の言葉はウソではない。全て本心からの真実だと。 だから俺は彼女を信じる。俺を信じてくれた美冬を信じるんだ。
「それじゃ、あたしバイトだから! あとでメールするね!」
二ヶ月ほど前から、美冬はバイトを始めている。 どこかのコンビニのバイトらしいけど、詳しいことはよく分からない。 彼女が自分からやりたいって言い出した事だったから、俺は見守る事にしたんだ。 口を出さずに遠くから。それでも美冬ならやっていけると、俺は思う。
「さて、と…。 やることもないし、俺も帰るかな…」
* * *
自宅で、俺はベッドに寝転がりながら美冬とメールをしていた。 彼女は今帰宅中らしい。時刻は八時半。ずいぶん遅くまでやっているんだな。 そんな事を考えているうちに、彼女からメールが入った。 美冬からの着信やメールだけは他人と音楽を変えている。その音楽が軽快に鳴ったのだ。
『もうすぐで家だよ! ねぇ、明日も会える?』
そんな内容だった。 俺は悩むことなくボタンを押し進めていく。
『もちろん!どこが良い?』
顔文字も絵文字も入れない簡単なメール。 だけれど、それは美冬が望んだことだった。 なぜかは分からないが、美冬がそう言うのだから、顔文字も絵文字も入れない。
「……送信、と」
送信ボタンを押すと、携帯の画面が切り替わって、紙飛行機が飛んでいく画面になった。 それが無事遠くまでいって見えなくなると、画面に「送信完了」の文字が浮かんだ。 すぐに返事が返ってくるはずだから、俺は携帯を隣に置いておいた。
しばらくはベッドの上でごろごろしていた。 その時間がもったいなくて、俺は今日のキスの感触を思い出していた。 柔らかくて、温かい美冬の唇。 思い出すだけで愛しさが込み上げてくるのを、俺は感じていた。
それからまた時間が過ぎてゆく。 だが、いつまで経っても返事が返ってこない。
「……どうしたんだろ」
気になる。 普通の人だったら気にはしないだろうと思う。 けれど、美冬はそんな事は今までになかった。 最後には必ず『オヤスミ。』とか『もう寝るね。』など送ってくるはずだ。
「……………」
携帯を前にして、俺はなんだかいても立ってもいられないような気がして。 とりあえず確認だけはしておこうと思って、電話をしてみることにした。 電話帳の中から美冬の名前を探す。いつもしているだけに、難なく彼女の名前は見つかった。
『プルルルル……プルルルル……』
出ないな。 ……電話に誰もでんわ。 こんな寒いギャグ誰が考えたんだ?など考えているうちに着信音がやんだ。 きっと美冬が出たのだろう。
「美冬?今どこにいるの? もう家に帰ったのか?……なぁ、おい?」
確かに電話は通じているはずだった。 画面にも『通話中』と出ているし。
「おい、美冬?どうしたんだよ?」
『……いやぁっ!たすけてっ!』
美冬の声だ。 何だ、と思った。 電話をしたら彼女の声が。 しかも明らかに和やかではない。 彼女の身に何か起きているのだと、俺は感じた。
「おい!美冬!どうしたんだよ!?」
『いやぁっ!!助けて!リョウ君っ!!』
わけが分からない。 だけれど、彼女が助けを求めている。 それだけで俺の行動理由は決定されていた。 部屋の中に転がっているTシャツを着て、急いで家を出た。
「ちくしょう!美冬!」
持ってきた携帯を片手に、俺はバイクを転がした。 高校二年のときに免許を取って、親が買ってくれたバイク。 今でも大事にしている物だ。これでよく美冬とデートをしたものだ。 エンジンをかけて、勢いよく飛び出す。制限速度など完全に無視して、俺は美冬のいる場所まで駆けていった。
* * *
俺が美冬の家のそばに来たときには、すでに九時を回っていた。 彼女とのメールで、家のそばまで来ているということが書いてあったので、その通りにしたのだが。 彼女の姿は影も形もなかった。
「くそっ!」
とりあえず美冬に電話してみる。 しかし電源が切られているのか、電話の向こうでは規則的な女性の声。 舌打ちをしてから、今度は美冬の家の自宅に電話をしてみた。
『はい、麻月です』
電話に出たのは、おそらく彼女の母親だろう。 女性の声だが少し中年を感じさせる声質。美冬とは大違いの声だった。
「青田です!あの、美冬さんは帰ってきていますか!?」
少しの沈黙。 つばを飲み込む音が、イヤに大きく聞こえてきた。
『それが……まだ帰ってきていないんです。 きっと青田君のところにでも行っているのかなと思って、連絡しなかったんですけど…」
彼女の母親は俺たちの仲を知っているらしい。 きっと彼女が言ったのだろう。だが、そんな事はどうでもよかった。
「いえ、ちょっと気になることがあって。それじゃ!」
急いで電話を切ると、俺はバイクを急発進させた。 どこだよ、美冬!どこにいるんだ! 心でそう叫びながら、俺は美冬の家の近所を駆け抜けた。 そして、ふと道路の真ん中に落ちている誰かの靴。それは彼女がさっきまで履いていた靴だった。
「これ…! ……まさか!」
その落ちていた場所の目の前には、草の茂った大きな空き地があった。 寒気が体を突き抜ける。冷や汗が出て、鳥肌が立った。 覚悟を決めて、俺は踏み出した。自分自身の予感が当たらぬことを祈って。
「美冬!」
草を掻き分けながら進んでいく。 俺が大きく叫んでも何の反応も返ってこない。 少しだけ安心感が心に訪れた。 とりあえず、もう少し進んでみた。すると草が茂っているはずなのに、ある場所だけは草が刈られていた。 グッと手を握る。震える足を動かして、俺はゆっくりとその場所へ歩を進めた。
「………!!」
絶望感か。 もしくは悪夢なのか。 夢であるのなら、早く醒めてくれ。 俺は力なく膝を地面につけて、その光景を見入った。
破かれた服。 泥がついているのか、汚れた顔。 口からはよだれが垂れている。 顔の一部には殴られたようなあざもあった。 そして、はだけた下半身。 少女の秘部から垂れる、赤い液体と白い液体。 意識はあるのだろうか。いや、ないだろう。 虚ろな瞳が、天を仰いでいる。光を失った瞳が闇夜を照らす月を眺めているようだった。
「……美冬…」
俺は彼女を抱き寄せた。 しかし、彼女は一つの反応も返さなかった。 ただ虚空を見つめ続け、小さく呪文のように繰り返す言葉があった。
「た……すけ……て…リョ……くん…」
「美冬ぅ!!!」
俺の叫び声が、静かな夜に響いていった。
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