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嘘吐き達の韜晦理念 Concealidea of Jokers 作者:稲端肖

第1回   分冊1
嘘吐き達の韜晦理念 Concealidea of Jokers   稲端肖


『二〇〇五年 七月二十四日 午後四時十八分』

事務所というよりは単にマンションの一室に近い部屋で、
神子柴早良は机に足を投げ出していた。
紫煙が充満した室内には、彼女の他にもう一人。
淡いショートの茶髪。ピンクのフリルがついたキャミソール、デニムのパンツ。背は低め。
未だどことなく幼さの残る風貌の彼女は、煙の元を咥えている張本人に、
「まだ仕上がってないんですか神子柴センセー!締め切りまで後四時間しかないんですよ!」
少し苛立ちを交えて話し掛けた。
『ミコシバセンセー』と呼ばれた女性は、不機嫌そうな表情で煙草を灰皿に落とし、
その両足を机から床に戻した。椅子に腰掛けたまま軽く伸びをする。
黒いワイシャツの袖、黒いロングの髪が風に揺れた。
「まーまー。そんなに文句ばっか言ってたら早死にするわよ?」
「一体誰のせいだと思ってるんですか……」
「自業自得ね。転職したら?」
「えぇ、センセーの仕事が一段落したらそうしますよ……」
「あらあら……別に無理しないでいいのよ?このあたしが名残惜しいならそれはそれで」
「出来れば早急に別の作家さんの担当に回して欲しいですけどね……」
既に半泣き状態の彼女を尻目に、神子柴早良は目前のパソコンをスリープ状態にする。
一連の動作の流れを殺さず、慣性力によりゆっくりとした動作で立ち上がり、
ソファーに置かれていた濃紺のバッグを取り、肩に掛ける。
「なんか疲れた。気分転換に散歩でもしてくる。部屋の掃除とかよろしくね、メグちゃん」
「ひ、人の話聞いてましたぁ?締め切りまで後……」
「四時間しかないんでしょ?いくらあたしだって解ってるわよ。九時前には戻るわ〜」
「全然解ってませんってばぁぁぁ!神子柴センセェェェ!」
「じゃ、あとはよろしくっ。Arrivederci,Ciao!」
イタリア語での別れの挨拶と共に、重みのある鉄製の扉がゆっくりと開き、等速度で閉まる。
「また……編集長に怒鳴られる……」
残された女性――戸柄恵は、半ば呆然とした表情で、それでも極めて深刻に思考していた。


『二〇〇五年 七月二十四日 午後四時二十七分』

私の名前はミコシバサラ。神の子どもに柴、早い良いと書いてそう読む。
だが、この外人めいた響きの名前が、本名かといえば実はそうではない。
良く言えばペンネーム。悪く言えば偽名だ。
小説家。モニターの前でキーボードをカタカタ打ち、出来た原稿を担当に預け、
出版社へと運ばせ、売れた本の印税とやらで食っている職業。それが私だ。
まあ上から下まで真っ黒なスーツで構成された今の姿は単に私の趣味なのだが。
書いているジャンルは主にミステリー。
『女弁護士鈴原葉月』シリーズはそれなりに有名となった。
メグちゃん――戸柄恵(トツカメグミ)は、家族の都合で高校を中退し、
ある出版社に奇跡的に就職。現在私の担当をしている。
たしか今年で十七歳……私と七つも違う。若いのはいい……年寄り臭いか。
一生懸命頑張っている子だ。迷惑をかけてつくづく申し訳無い事をしていると思う。
だが、私が『あたし』として小説を書き続けるためには、仕方無いのだ。そう割り切っている。

二重人格。そう言うと誤解を招くかもしれないが、今の私はそれだ。
必要に応じて人格を変更することができる。いや、しなければ生きていけないのだ。
小説家としての陽気な『あたし』と、普段の陰気な『私』。それぞれがそれぞれの役目をロールしている。いわば表と裏。表裏の『強調性』だ。
人間には少なからず表と裏が存在する。そして、それぞれを人は個性と定義している。
だがその個性が強烈に外界へと表出してしまうと、それは一人歩きしてしまう。
結果、片方の個性はもう片方の個性と決別してしまう。
現在の私はその状態だ。
まあ、だからといってなにがどうこうというわけでもない。
私は私として、私の役割を演じる。それだけだ。

急に口元が寂しくなった。締め切り前は殆ど必ずこの状態がやってくる。
対処法は承知だ。ワイシャツの胸ポケットから、お手製のシガーケースを取り出す。
蓋を開けて中を覗くが、いつものやつはもう失くなっていた。
(仕方無い……散歩ついでに買いに出るか。普通の自販機じゃ売ってないんだけどな……)
心の中だけで軽く毒づき、進行方向を少しだけ変える。ビル街の風が横顔を撫でた。


『二〇〇五年 七月十九日 午前零時四十三分』

「げほっ!」
口元から夥しい量の血液が嘔かれる。
嘔吐したのは身長が二メートルはあろうかという巨漢。
対峙するは両の拳を返り血に染めた青年。身長は相手より三十センチは低い。
彼の廻りには、巨漢の仲間であるらしい集団が、身体をボロボロにして転がっていた。
「やっ……やめてくれ!あのクスリにはもう手ぇ出さねぇから……ごふっ!」
全身の力が抜け去りつつあるであろう巨漢の鳩尾に、更に蹴りを入れる。
背中を丸める男の髪の毛を強引に持ち上げ、青年は男の顔を自分の顔へと近づける。
「勘違いするな。『もう』は問題じゃない。手を出した奴は既に『俺の敵』なんだよ」
口調は冷静に、しかし力強く、己の額を男へと衝突させる。
頭部に強烈な一撃を受けた男は完全に気を失った。
青年は周囲の状況を一瞥し、男の懐へと手を伸ばす。
胸ポケットには無い。内側にも無い。ジーパンのポケットの膨らみは財布だけ。
念の為帽子も脱がすが何も無い。
この手の輩、いわゆる『不良』はアノ手のものは大体ポケットに入れておくだけだが
(アレは普通のクスリじゃないからな……どこに隠すか……流石にパンツの中は……)
と、そこまで思考して思いつく。
何の為にここまで太くしたのか分からないベルト。隠すには充分な大きさだ。
バックルを外し、ベルトを引っ張り上げる。男の体が半回転した。
黒い皮の裏側を観察する。普段じっくりと見ないであろうその部分を、暗がりで凝視する様子は滑稽であろうが、今現在誰も彼の姿を見ていないのでそれは安心だ。
視察の結果、一部不自然な縫い目が見つかった。ナイフを取り出し一気に引き裂く。
二重構造の内側から、薄い板状のビニール袋が飛び出した。内部には『いかにも』な白い粉。
(……馬鹿は馬鹿なりに頭を使う、か)
念の為、周囲に転がる他の男達の所持品もチェックするが、目立ったものは出てこない。
代わりに、『準』ヘッドと思われる男のベルトから、同じようにビニール袋が見つかった。
(……前言撤回。やっぱこいつら単純馬鹿だ)
他には無い事を確認すると、青年は持参した工具でマンホールの蓋を開け、下水へと降りた。
悪臭が身体を蝕むが、彼には関係ない。ナイフで手に持つビニール袋を裂き、中の粉ごと流水へ投げ入れる。どす黒い下水の色が、少しだけ朱に染まった。
一仕事終えた青年の顔には、しかし安堵の表情は浮かんでいなかった。
「まだだ……こんな数じゃあまだ、『奴ら』には近づけない……」
地下に伸びる空洞で軽く反響した彼の嘆きは、誰にも伝わる事は失く――


『二〇〇五年 七月二十四日 午後四時五十六分』

「くしっ」
夏風邪……かな。煙草の自販機の前で、私は軽くくしゃみをした。
硬貨を数枚投入し、少しだけ古びた販売機のボタンを押す。一番右下だ。長年変わらない位置。
ガゴン、という機械音の後、一箱が落下した。軽くかがみ、その黒い箱を取り出す。
箱の表面にはひび割れたハートマークが描かれている。
その下には『 DEAD-HEART 』というロゴ。

このパッケージに初めて遭ったのは学生時代だ。
当時はここまでヘヴィースモーカーになるとは思ってもいなかったけど。
『憧れの先輩が吸っていたから』とか『大人びたかったから』とか、そんな理由は微塵もない。
ただ単に興味本意だった。別に偉ぶる道理もない。
だが――常習性はともかく――何故か吸うに連れ板についてしまい、今では最高の相棒だ。
「でも……このイラストはあまり好きじゃないのよね、あたし」
そういう理屈で、私はシガーケースを持ち歩いている。薄いビニールをまとったパッケージから二十本の白い棒を掻き出し、それら全てをシガーケースに収めた。ついでに一本を抜き口に咥える。右ポケットからジッポトリックをキメつつ火の元を取り出し、口元に宿した。
白く長いシガレットの先端が紅く燃え、煙が徐々に伸びる。
この光景が私は好きだ。なんとかと煙は高い所が好きとよく言うが、何か微妙に間違っている気がする。常に高みを目指す煙の志が、私は好きなのだ。私にはとても出来ない、その姿が。

吸気を肺へと流し込み、吐き出す。頭へと煙が巡るイメージ。
一瞬にして全てをリセットできるそれは、私にとっては無くてはならない必需品となっている。
表から裏へ、そして裏から表。
その中間に位置するのがこの煙だ。依存症以上に『依存』している。

今までの曖昧だった思考が一気に吹き飛ぶ。
途端、何をしなければいけなかったのか、別の情報が脳に流れ込んでくる。
「……そーいや今日締め切りだったわ」
ニューロンの異常なまでの活動に期待し、それでも私の脚は自宅へとは戻らなかった。
腕時計の針は既に五時を大幅に回っていた。


『二〇〇五年 八月七日 未明』

「分かっています。勿論、細心の注意を……どういうことですか?まさか、彼女はまだ……」
薄暗い部屋で、携帯電話のバックライトだけが人物の横顔を照らしていた。
彼(もしくは彼女)は、電話向こうの相手に問う。
「だとしたら、外部からの手が……はい……はい。勿論……それは確かです。あの時の状況では……まさか……覚醒した、と? そんな馬鹿な……はい、分かっています。分かっていますが……あまりにも出来過ぎている……内通者……確かにその可能性も……はい、今すぐに身元を洗います。では」

通話終了ボタンを押す。ピッという短い高音が部屋に浸透し、それでも直に沈黙が闇を制す。
わたしは椅子に深く腰掛け、暗の中で目を閉じた。
闇の中の闇――それは人の心に似ている。
人は誰しも心に闇を負う。そしてその闇の中に在る闇を、人は『悪』と称す。
罪と罰が表裏一体ならば、正義と悪も表裏一体だ。
では、わたしはどちらだ?
正義なのか、悪なのか。それを決定付けるのは観衆の視線だ。
尊敬か、侮蔑か。表裏一体であろうその事象は、人を事細かに分類……いや、分別させる。
だが、それでも人は言う。
『正義にとっての悪は悪だが、悪にとっての正義は悪だ。故に、この世に正義は存在しない』
それもまた、表裏一体の事象。絶対矛盾だ。
それならば、と人はまた口を開く。『正義とは何なのか』……簡単なことだ。
「『神』と同じさ……信仰の中に根付く架空の存在――正義なんてものは、そもそも存在しない」
独り、闇に向かい溢す。自問自答。失念だった。何も意味はない。

携帯電話の着信音が響く。無名のクラシック音楽だ。
高音質のビートを刻む音色は、持ち主を呼び続けている。
彼(もしくは彼女)は、ふぅっと息を吐き、右手の物を電話に向けた。
「いいかげん、うんざりな曲だ……新しいのに変えるか」
言葉と共に放たれた銃弾が、折りたたまれた携帯電話を貫き、その生涯を終わらせた。






Continued

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