4 港町から東方に歩いて一時間ほど。開けた平野のど真ん中に、スクールは位置している。 移動の不便さもあり、生徒達は皆、寮に入れられる。帰ってこられるのは、まとまった休日のみ。その上、近くに、街らしい街の一つもなし。魔法の実技等を行う際にも、周りに迷惑はかからないし、誘惑も少ないと言える。まさに勉学には打ってつけの環境だな。 ただ……昔の俺は、どうにもこの環境に馴染めなかった。ある意味、スクールは閉鎖された空間とも見て取れるだろ。四六時中、あの建物で過ごすってのは、どうにも息が詰まるんだよ。 学生時代には、楽しい思い出なんてほとんどなかった。あの頃の俺は、魔法が使えない事に苛立って、躍起になってたんだ。そしてその分、剣に頼ってばかりいた。そして……いつしか俺は剣を手放せなくなっていた。 本当に、馬鹿みたいな話だよ。結局は自業自得だってのにな。 あれから一年。そろそろ探偵稼業も板に付いたかと思ってた矢先に、魔法が使えるようになった。青紫のピエロとも初めて対峙した。まるでレベルの違う戦いを、見せつけられた。 そして、俺は再びここに戻ってきたんだ。 全てを学んだ場所、スクール。そこの正門前に、俺達はいた。 「……全然、変わってないな」 やたらと大きな校舎を見上げながら、俺はそう漏らした。 「一年ぶり、なんだよね。すごく、久しぶりの気がする……」 ミレアもまた、感嘆の思いを口にした。 「やれやれ、どうしたもんかな?」 胸の内から熱い物がこみ上げてくる、そんな気がした。 緊張?まさか……感動って事はないよな。 何をするでもなく、俺はしばし立ち尽くしていた。 「……入らないの?」 「いや、その……お前、先行けよ」 「ふ〜ん」 な、何だよ、その『ふ〜ん』てのは。 「ま、いいわ。早く行こうよ」 そう言って、ミレアは俺の前に立って歩き始めた。 あ…… 「久しぶりだよな」 「ここに戻ってくるのが?」 「さて、どうだかな」 お前の後ろ姿を見るのが、さ。 俺はあえてはぐらかした。 先陣を切ったり、隣に並ぶ事はあっても、誰かの後ろを歩く事は滅多にない。相手が相棒であっても例外ではなく、いつしか俺もミレアの背中をすっかり忘れてしまっていた。 でも、悪くない気分だ。 「変なフィズ」 ミレアは訝しがるばかりだった。 正門をくぐり、正面の玄関口へと向かう。そこで、俺達は声をかけられた。 「ん? そこにいるのは……」 「あ、先生!」 すかさず挨拶するミレア。 「どうも、ご無沙汰してます」 「タガーノ……ミレア・タガーノじゃないか! 久しぶりだなあ。元気にやっとるか?」 「はい、おかげさまで」 どの辺がおかげさまなのか知らないが、そこは礼儀ってもんだ。見知ったかつての恩師に対して、ミレアは懐かしそうに話しかけていた。 「先生の方こそ、いかがですか?」 「ああ、儂も変わりはないよ。 そうそう、確か君の弟になる……」 「ああ、ヘル君」 「あ、うむ。あのお方のご子息殿だったな。彼も実にいい生徒だよ。 儂も教師という立場ゆえ、あえて彼にもそういう態度で接しているんだが……」 「存じております。昔から、ご立派な教育方針をお持ちでしたものね」 「優等生だった君に言われると、儂としても誇らしく思えるよ。 まあ、積もる話は後にして、とにかく中に入りなさい。かれこれ一年ぶりなんだ。後輩達にも会いたいだろう?」 何やら勝手に話を進め、教師A(何の事はない。本名を忘れただけだ)はミレアを連れ添って中に入ろうとした。 って、ちょっと待て。 「……先生」 「うん、何だ君は……ゲッ!」 俺の姿を見つけ、たじろぐ教師A。 「どうも、先生」 「ラ……ラ、ラ……ライア……」 「フィズ・ライアスですよ。お忘れですかねえ、先生?」 『先生』の語尾を強め、凄みを利かせる。教師Aの顔は、大量の脂汗をにじませて、今にも泣きそうになっていた。 「かつての教え子がこうして母校に帰ってきたってのに、シカトとは随分な挨拶じゃないですか。 何なら……」 剣の柄に目を落とす。 「久々に、実技テストとしゃれこみましょうか?」 「タ、タタ……タガーノ!悪いが、先生用事があったんだ。一人で行っててくれ!」 「一人で?」 「あ、いや……二人でだ。頼むぞ!」 その場から逃げるようにして、教師Aは校内へと走り去ってしまった。 「あんたなんかに頼まれる筋合いはねえ」 姿が完全に見えなくなったところで、俺は構えを解いた。 魔法の一発でもかましたかったが、意識容量を無駄に減らす必要もない。 「今のあなたは、無視されたくらいで剣を抜くほど、心が小さいわけでもないでしょ」 溜め息をつく相棒。 「本気で抜く気はなかったよ。あんな野郎相手に、輝きの剣を使うのも勿体ないしな。ワンパンで十分さ」 「先生、本気でびっくりしてたけど」 「いい薬だろ」 ああいうタイプの人間が、俺は一番嫌いなんだよね。 昔からそうだった。先輩だろうが教師だろうが関係なし。ふざけた口を利く馬鹿野郎には、問答無用で一閃をくれてやってた。 そう、あの時からしてみれば…… 「俺も優しくなったもんだよなあ」 「て言うかさ。昔のあなたが、でたらめすぎるのよ」 またミレアが俺の前に立ち、正面扉に手をかけた。 「……お前も、成長したよ」 「ん?」 かすかな音を立て、扉が大きく開かれる。 「泣いてばっかりだったろ? 少なくとも、ああいう時の俺に対して軽口を叩こうとはしなかったはずだぜ」 「当然だよ」 先にミレアが、続いて俺が入る。 「だって……」 「だって?」 扉を閉めながら、俺は答えを促した。ある程度、予測はついていたけれど。 「だって、今は大切な相棒じゃん」 ミレアは微笑んでくれた。 ……サンキュ。 「さ、マスターに会いに行こうよ」 「分かってる」 俺達は揃って、廊下を歩き始めた。 中の様子も、一年前と何ら変わっていないみたいだ。あまり掃除の行き届いていない床も、やたらと大きな窓も。 全ての生徒用教室が二階以上にあるため、ここでは生徒達の姿は見受けられない。一階にあるのは、玄関ホールと教員部屋、マスタールームに応急処置室兼休憩室の四つのみ。 そして、俺達が目指すのはマスタールーム。スクール創立者にして伝説の男が一人、〈魔を極めし者〉専用の個室だ。大抵、マスターはここにいる。 ……さして時間をかける事なく、俺達は部屋の前にたどり着いた。 「………………」 扉に貼られたプレートの文字、『マスタールーム』。 とうとう、来ちまったな。 ミレアに目配せをする。彼女は頷いてくれた。 「よし……」 意を決して、俺は三度扉をノックした。 「入れ」 しゃがれた声が返ってくる。 この懐かしい声……忘れもしない、あの人の声だ。 ごくりと生唾を飲んで、俺は静かにノブを回した。 戸が開放され……中の様子があらわになる。 部屋の奥に置かれた机。そこに一人の老人が腰を下ろしていた。外見からもすぐに高齢と分かる。しかしながら、その身体に漂う威厳はいささかも衰えてはいない。 この人こそがマスター、〈魔を極めし者〉だった。 俺達二人は肩を並べて直立の体勢を取る。くだけた性格の俺でも、このシチュエーションではそこそこに改まらざるを得ない。 「フィズ・ライアス」 「ミレア・タガーノ」 それぞれの名前を読み上げる。 「現時刻をもって、ここスクールに到着しました」 締めをくくったのは俺だった。 「うむ、ご苦労。久しぶりじゃな、二人とも。 ミレアについては特に要請していなかったが、まあいいじゃろうて」 マスターは、机の正面にあるソファーを指さした。 「まあ座れ。楽にしてよいぞ」 「あ、そうかい。じゃ、お言葉に甘えて」 即座に反応して、俺は勧められるままに座らせてもらった。 うーん、何て座り心地のいいソファーなんだ。伊達にマスターやってないってか。 「相変わらずじゃのう、フィズは」 「礼儀も建前よ。律儀なんて言葉、俺にゃ一生縁がないね」 「あのねえ……フィズ」 相棒は呆れ顔。 「それって自慢出来ないよ」 「ベタな突っ込みはいいから、お前も座れっての」 「でも……」 どうもミレアは、マスターが気になってくつろげない様子だった。 「楽にせよ、ミレア。私も話がしやすい」 「……恐縮です、マスター」 二度目でやっと、ミレアも心を決めたらしい。俺の隣に腰を下ろした。 「どうじゃ、調子は?」 「探偵もいいもんだ。のんびりやらせてもらってるよ」 「聞くところによれば、魔法を使えるようになったらしいが」 大方、オヤジかヘルゼーラか、さもなくばフェイカーあたりが話したんだろう。 「風に関しては、だいたい」 「そうか。それはよかったな」 茶を勧められたが、俺は受け取らなかった。 さっさと話をしたかった。何故、俺がここに呼ばれたのか、きちんとこの人の口から聞きたかったからな。 向こうもそれを察してくれたみたいだ。 「ところで、フィズよ。 あやつの手記とやらを持っておるか?」 「皆まで言うなって」 道具袋に手を入れ、俺は中からそれを取り出した。 かつてのターミアル城下町の調査で、ミレアが城から持ち出してくれた唯一の物。表紙に書かれたサインは『ロゼ』と読める。 「オヤジにも見せてくれって頼まれたよ。 俺自身も、何度も何度も繰り返して、暗記するほど読ませてもらった」 ロゼの日記帳をマスターに手渡した。 「おお……」 表紙に目をやり、感嘆の吐息を漏らすマスター。 「このサインは……間違いなくあやつの物じゃよ。もうあれから、一六年も経つと言うのになあ。 私もクリマも半ば諦めておったんじゃ。その矢先にこんな物が発見されるとは……それもフィズの手で……」 「感涙に伏せりかかってるところ悪いんだけど、見つけたのはミレアだぜ」 「……フィズ!」 舌を出して、俺は明後日の方を向いた。 「わざわざ雰囲気を壊す必要もなかったかい?」 いやあ、悪い悪い。どうも緊張してるせいか、今一つテンションの上げ方が掴めないんだよ。 「すまぬが、フィズ。 この帳面、よければ、私に預けさせてはくれないか?」 「出来ない」 俺は即答した。 「いくらあんたの頼みでも、こいつだけは譲れないんだ。分かってくれ、マスター」 「……気に病む事はない。お前にはこれを持つ権利がある」 一旦言葉を切って、マスターは俺の顔をじっと見据えた。 それから、こう続ける。 「お前は……ロゼ・ライアスが血を分けた、実の息子なのだからな。 いわば、これはあの男の遺品。ならば、身内の者が持つべきなのだろう」 それは……違う。俺は、この日記帳を遺品として手元に置いておきたいわけじゃないんだ。 俺は……俺はただ…… 「父さんが」 「ム?」 「父さんが……何を成し遂げたのか、知りたいだけなんだ。 生まれてもいない俺と、母さんを置き去りにしちまうほどに、父さんが惹かれた物が何なのか、見極めたいだけなんだ」 養父の、クリマのオヤジから聞かされている。 俺の本当の父さん、ロゼ・ライアスは何故〈剣を求めし者〉の片割れとして、伝説とまで呼ばれるようになったのか。 ……オヤジは言った。ロゼは、全てを投げ出して大戦を終わらせたんだ、と。そしてその全ての中に、母さんと……母さんの腹の中にいた俺も含まれてたんだ。 俺が探偵になろうと思ったのも、不可視の類を信じられなくなったのも、この話を聞いた後の事だった。 「ロゼは……ある種の天才だ」 過去形を用いるのをあえて避けるようにして、マスターは呟いた。 「そして、世界はあやつを必要とした。それはお前達のためでもあった。 こういう言い方をすればお前は怒るかも知れないが……所詮はそれだけの話だ」 その言葉に、俺はどうしようもない憤りを感じた。 ……理屈じゃ分かってたよ。あの時の父さんの選択は正しかった。その事は、後の世が証明してくれている。父さんが、伝説とまでに称えられる偉業を遂げたのも、文句の付けようのない真実なんだ。 でも……でもさ……父さんはそれで満足だったのか?少なくとも、息子である俺には納得出来ないよ。 「……もう分かった」 感情を押し殺し、俺はこの話題を打ち切った。 今はやるべき事がある。 「ミレア」 そんな俺の心中を見透かしてか、マスターは隣の相棒に声をかけた。 「すまぬが、少し席を外してくれぬか? フィズと二人だけで話したい事があるのでな」 「かしこまりました、マスター」 別に不満もない様子で、ミレアは席を立った。元々呼ばれたのは俺一人だし、ここで異を挟む理由もないんだろう 「授業の方が終わって、生徒達も帰寮しとる。そちらに行って、時間を潰したらどうだ」 「そのようにさせてもらいます。 フィズ。そういう事だから、後で寮まで来てね」 「分かった」 「どうせ今晩は泊まっていくんじゃろう。空き部屋があるから、寮の教師に聞いてみるといい」 「お心遣い、感謝いたします」 一礼して、ミレアは部屋から出ていった。 どうでもいいが、いちいち馬鹿丁寧なヤツだよな。ああいうのは、昔から変わってないぜ。 「さて……」 咳払いと共に、マスターは俺に向き直った。 「本題に入るか」 再び、俺の身体に緊張感が戻ってくる。 「何故、お前を呼んだのか……全てを話すとしよう」
……凄まじい威圧感だ。 俺は喋る事も出来ないまま、マスターの次の言葉を待っていた。 相棒がいれば少しは気が楽になるだろう。が、これからの話は俺にとって非常に重要な物となる。逃げ道を作らず、しっかりと受け止めなければならないんだ。 「お前は……」 沈黙を破り、切り出すマスター。 「お前は、大戦についてどの程度を知っておる?少し、話してくれぬか?」 「ん……ああ」 大戦についてか…… 「あんたの弟にあたる人間が野心を抱き、秀ですぎた力をもって世を制圧しようとした事が、全ての始まりだった。 後にシャドウマスターと呼ばれるようになったその弟を討つべく、あんたは三人の協力者を得てパーティーを組んだ。その中には、オヤジや俺の……本当の父さんも混じっていた。 大戦だなんて大仰な言い回しをしているが、蓋を開けてみると何でもない。単なる兄弟喧嘩の発展だ」 しかし、その兄弟喧嘩は洒落で済まされるスケールではなかった。ほどなくして、戦火は世界中に広まっちまった。 「あんたとシャドウマスターは、天才にして対極の存在だ。 在のあんたに対して、弟は無。即ち、創造と破壊の力を持つ者の争い。 未来においても、これだけの戦争はそうそう起こらないだろうな」 「……結末については?」 「パーティーは最終的に分散した。 〈魔を極めし者〉と〈槍を尊ぶ者〉が戦線離脱。戦いは〈剣を求めし者〉が二人に託されたんだ。 その後……ある時を境にして、シャドウマスターと〈剣を求めし者〉達は行方知れずとなった。 最終決戦の勝敗はおろか、彼らの生死すら今となっては謎のまま。三人が姿を消してから、もうかれこれ一七年が経つ。いつしか世間は平穏を取り戻し……彼らは伝説となった」 それが……大戦に関する俺の知識の全てだった。 ロゼ・ライアスやベルナ・ノウカン、それにシャドウマスターが生きている可能性もある。しかし、この一七年、音沙汰がないのも事実なのさ。故人と扱われても仕方ない。 ともかく、俺はこれ以上を知らなかった。だから、次のマスターの言葉は返答に窮せざるを得なかった。 「大戦の引き金になった物については?」 ……引き金、だと? 「全ての原因にあたる、忌まわしき者についてはどうだ?」 「悪いな。何の事だか分からない」 知ったかぶっても、得になりはしない。ありのままに俺は告白した。 「俺が知ってるのは概要のみだ。つまりは、ここの授業で習った事くらいしか答えようがないんだよ」 ……俺は確かに、伝説の英雄の息子さ。でも、だからと言って大戦の多くを知っているわけではない。 関係のない他人事だったから。そして、俺自身が伝説を拒んでいたから。 「で、それがどうしたんだよ?」 「……フィズよ。私はお前に全てを打ち明けるとしよう。 この話をするのは、あの時のパーティーを除けばお前が初めてとなる。下手な混乱を避けるため表には出さなかったのだ」 さあ、いよいよか…… 改めて、俺はマスターの次なる言葉に耳を傾けた。 「今からおよそ四〇年ほど前になるが……」 四〇年前……大戦が勃発したのが二五年前だから、戦前においての話か。 「かねてより組み立てていた計画は、私とシャドウマスターの手で実行に移された。 その計画とは即ち……魔法の力をもって、この世に人間を生み出すといったものだった」 「人間を……魔法で?」 俺は耳を疑った。 魔法により生物を作り出すといった技法は、確かに存在する。それは、俗に召喚と呼ばれている。 尤も、その術を扱えるのは……例外を除いて……自然界における最高位の属性、天を保持する者に限られるのだ。また天属性の人間ならば誰でも生み出せるのかと言えば、そうではない。生まれつきの才能を持ち合わせた者が、厳しい鍛錬の果てにようやくたどり着ける、まさに境地に値する世界なのさ。 魔法によって生み出されし者は、魔物と称される。魔物は人間を含め、自然界のいかなる生物にも類さない。姿形こそ動植物と瓜二つであったとして、実際には全く異なる存在なんだ。 常識の範囲で物を言えば、魔法で人間を作り出すなんて芸当は不可能。空想の絵空事に過ぎない。 しかし……伝説の男達の器は、常識程度に収まろうはずもなかった。 「可能、かも知れないな。あんた達の力があれば」 「理論の上では完璧だった。 私には命を創る事が出来る。そしてシャドウマスターには死を呼び覚ます力がある。私達二人の力を持ってすれば、確実に成功するはずだった」 「その顔じゃ、大した成果は上がらなかったみたいだが……そうなのか?」 本当のところ、俺は召喚についてあまりよく思っていないんだ。たかが人間風情が、創造主気取りで命を弄ぶ。……それは許されない事ではないんだろうか。俺にはそう思えて仕方がない。 だからだろうな。内心どこかで安堵を覚えながら、確認の意味で俺は尋ねてみた。 「どうなんだい?」 「失敗した。一度はな」 「……二度目は?」 「成功したよ」 ……何だと? 「あの時に、私達が作り出したのは魔物ではない。外見は勿論、身体機能や知性思考に及ぶまで、何一つ私達と違わない完全なる人間だったんだ」 「そいつは……よかったな」 皮肉の意味で、俺はこの偉大なる男に対して賛美を述べてやった。 「成功したのが三〇年前。その当時は、まだ乳飲み子でしかなかったがな」 なるほど。人為的な生物とは言え、人間と等しいのであれば、ミルクを飲むのも当たり前か。 「唯一、あの子には他人と違った所があった。 あの子の力は自然に属さない。まさに、魔の使い手だったのだよ」 魔属性、ね。 天属性と似て非なる能力を保有する、人間が作り出した属性だ。この力を宿せるのは、魔物の類しかいない。 魔属性の人間……俺には一つの心当たりがあった。 「あの子の名付け親はシャドウマスターだ。 あの子の名は……私達の故郷の言葉で、死と戯れるという意味が込められておる」 「死と戯れ……寂しい名だな」 シャドウマスターが望んで付けたのか。そこには、如何なる真意があったんだろう? 「私が気付いた時には、すでに遅すぎた。シャドウマスターは……自らの駒として操るために、あの子を生み出したのだとな。 思えば、可哀想な子じゃよ」 「あんたにとっても、その子は我が子同然の存在。テメエの兄弟のチンケな野望の片棒を担がせたくなかった、と」 「……シャドウマスターは妥協を許さぬ男だった。頑固一徹とも言える性格は、長所でありながら短所でもある。 そして……あやつが破壊思想を抱いた時から、全ては狂い始めていたのだ。 神への冒涜に手を染め、世に生を受けた子供……死戯はシャドウマスターの手に落ちた。私達の戦いは、死戯の争奪より始まったのだ」 俺はもう、驚かなかった。そう考えると、ヤツに関するほぼ全ての説明がつく。 「……大戦の終着と共に行方をくらませた人物は三人ではない。 〈剣を求めし者〉が二人。我が弟、シャドウマスター。そしてもう一人……我が子、死戯の姿もまた、この一七年において一度も確認出来なかった」 そこで……マスターは一息ついた。 「ターミアルの件の報告書を情報屋から読ませてもらった。……心底から驚かされた」 「あの時……道化野郎は名乗ったんだ。自分は、シギだと」 にわかに信じがたい話ではある。 青紫のピエロなる通り名で知られるあの犯罪者が……大戦の引き金となった存在?普通ならたちの悪いジョークとみなされるのがオチさ。 でも……マスターはくだらない冗談を飛ばすような人じゃない。加えて俺は、あの道化の常識外れの実力を目の当たりにしてるんだ。 条件は揃ってる。少なくとも、俺に疑いの余地はなかった。 「まさか……生きていたとはな」 マスターが気付かなかったのも、当然だろう。青紫のピエロは神出鬼没で、特徴と言えば(どうしてそんな格好をしているのか分からないが)あのふざけた身なりくらいのもの。これだけの数少ない情報から相手を推測しろって方が無理だ。 「それで……マスター。 あんたは俺に何を望んでいる?」 一通りの筋は成り立った。残るは……これからについてだ。 「私は、別に」 「隠すなよ。わざわざ人をこんな所まで呼び出したからには、何かしてもらいたい事があるんだろ。 あんた、依頼状で言ってたよな。面倒を頼むかも知れないって。その面倒ってのは、一体何なんだ?」 ねばり強く、俺は問いつめてみた。 「……死戯を」 「シギを?」 「あの子を……楽にしてやってくれ。それが、私の本心だ」 がくりとマスターはうなだれた。それは、彼にしてはとても珍しい仕草だった。覇気が失せたと表現すべきか。少なくとも、先に感じた威厳は完全になくなっていた。 「面を上げな、マスター」 「………………」 マスターは動こうとしない。 「……あんたでも、そうやって苦悩する事があるんだな」 「………………」 「俺の知ってるあんたは、まさに伝説を絵に描いたような男だ。常に冷静で威風堂々としてて……何者をも寄せ付けない気迫がある。 だが、完璧な人間なんざこの世にゃ存在しねえ。あんたにだって、感情はあるんだよな。悲しんだり、悔やんだり、やるせなくなったり……」 父さん達二人だけを戦地に送った時にも、この人は悩んだに違いない。元々は自分の内輪もめだったんだ。他人任せには出来ないはずだった。 しかし、当時点でマスターの魔力は弱りすぎていた。負けると知れた勝負を挑むのはただの無謀でしかない。だからこそ、最終決戦の舞台から降りざるを得なかったんだ。 そして……今、同じ事を繰り返そうとしている。よりにもよって、運命を託す相手はこの俺だった。 「俺は探偵だ。あの野郎とは、いずれ戦わなければいけないさ。 断る理由なんてない。仕事として引き受けてやるよ」 すでに、覚悟は出来てるんだ。 「……フィズ」 やっと、マスターが顔を上げてくれた。 俺はソファーから立ち上がり、この九〇を過ぎた老人の正面に立つ。 「報酬代わりに一つ条件がある」 「……何だ?」 「今だけでいい。 〈魔を極めし者〉の肩書きも、スクールのマスターとしての地位も……全て忘れちまえ。それで、自分に正直になってみなよ」 見逃さなかったぜ、マスター。顔を上げた時、あんたの目に光る物があったのを。 「すまない」 机の上に数粒の水滴が落ちた。 この瞬間、本当に久しぶりに……マスターは自らをさらけ出した。泣く事しか術を知らない赤ん坊のように。 「俺にとって、あんたとクリマ・セイルは父親だ。たまには、親孝行もしとかないと、な」 これが……最期かも知れないなら、なおさらだ。
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