4 「兄ちゃん、すまんけどここで降りてくれるか?」 手綱をピタリと止めると、御者は申し訳なさそうな口調で話しかけてきた。 「連れて行ってやりたいのは山々だが、あの森はどうにもおっかなくてしょうがねえ。まだ少し距離はあるが、こっからは歩いてもらうよ」 「ああ、ここでいい。助かったよ」 「ありがとうございました」 礼を告げ、俺とミレアは手早く荷物をまとめて馬車の荷台から降りた。 「幾らだい?」 「へい、それじゃあ一二〇レア頂戴します」 値段を耳にして、俺は少し戸惑いを覚える。 「一二〇レア?ちょっと安くないかい?」 「気にすんな、サービスでい。それに、目的地まできちんと乗っけてやれなかった事もあるしな」 「そうか……いや、分かった」 ここは御者のオッサンの好意を受け取っておこう。そう納得して、俺は言われただけの額を手渡した。 「しかし、兄ちゃん達もつくづく物好きなもんだな」 金を袋に収めつつ、御者は怪訝そうに眉をひそめる。 「妖しの森伝説を知らねえわけでもねえってのに、わざわざあの森に行こうたぁなあ。俺も御者をやって長いが、シダノの森行きの客を乗せたのは今回が初めてだよ」 「そいつは記念になるじゃないか。何ならサインでもしておこうか?」 軽口を叩くと、すかさず横からミレアが肘でつついてくる。年配の方に対して失礼だとでも言いたげな態度だが……相も変わらず俺の相棒は真面目ちゃんのようだ。 「別にサインは欲しくねぇが」 って『欲しくない』のかよ、オッサン。せめて、『要らない』くらいにしといてほしかったぜ。 「その代わりに一つ聞かせてくれねえか?兄ちゃん達が何をしに、妖しの森に行こうとしているのか。 兄ちゃん達を見ていると、どうにも興味が沸いてきちまってな」 俺の心内の突っ込みなど知る由もなく、御者のオッサンは話を進める。 理由、か。 「話すと長くなるんでね。 ま、一言でまとめれば、昔の友達のために来たってところかな」 「……つくづく物好きな兄ちゃんだな」 相好を崩すオッサン。ぞんさいな言い方ではあったけど、全然腹は立たなかった。不思議と、どこか心地よくすらあったかな。 「じゃあ、そっちの姉ちゃんも友達のために?」 気さくな調子で、オッサンはミレアにも声をかける。 「その方とは友達というほどの付き合いはありませんでしたが……まあ私も物好きな女なんですよ」 「物好きパーティーってわけかい。 また縁があったら土産話でも聞かせてくれよ」 そう言って、オッサンは手綱を振った。二頭の馬が嘶きを上げ、すらりと伸びた足を動かす。 「それじゃあ、兄ちゃん達も気を付けてな」 「ああ、ありがとう」 最後にもう一度俺達に笑顔を見せ、御者は元来た道を引き返していった。 さて、と。これからが本番だ。 「行こうか、ミレア」 ミレアを促して、俺は足を一歩踏み出した。妖しの伝説の残された地、シダノの森の方角に。 暫くの間、御者のオッサンを見送っていたミレアだったが、俺が歩き始めたのに気付いたらしく、すぐに後をついてくる。 「ここからだと、少し歩かなければいけないみたいね」 「そうみたいだな。ま、森は逃げやしないんだ。のんびり歩いてもいいんじゃないか」 口ではそう言いながらも、俺は自然と足を足を速めていた。ジョーナンドがあの森にいる。その事が頭をよぎり、どうしても焦燥感を覚えてしまっていたのかも知れない。 そんな焦りを抱いていたのは、どうやら俺だけではなかったらしい。 「ねぇ、フィズ。あの森……変じゃない?」 「否応なしに森の方から漂ってくる気配の事か?」 俺がそう答えると、ミレアはぶるりと肩を震わせた。 「貴方も感じているなら、私の勘違いというわけではなさそうね」 「勘違いなわけないさ。こんな禍々しい気配なんざ、正直今まで感じた事がねえ」 例えるならば、そう……背筋から流れ込んだ大量の虫が全身を這いずり回っているようなおぞましさとでも言えばしっくりと来るだろうか。ただ突っ立っているだけでも尋常じゃないくらいに嫌な気分になる。 森に近付きたくない。俺の本能は警告と悲鳴を発していた。 「……戻るか?」 「冗談。 家に帰りたいのは私も山々だけどね……」 「まさかこれ程のものとは思わなかった。道理で森に入ろうとする人間がいないわけだぜ」 次第に重くなる足を一歩一歩踏み出しながら、俺とミレアはひたすらに森を目指した。 離れていてもこんなに嫌な感じがするんだ。いざ森の中に入ったとしたら、どれだけのものになるのだろうか。 けれど、この森の中にジョーナンドがいるのならば、放っておくわけにはいかない。回れ右をして帰る事は容易いが、もしもそうしたら俺は自分を許せなくなる。 仕事云々という以前に、友を見捨てるような事は断じてしたくない。 「早いとこ片付けて、帰ったらゆっくり休もう」 俺の言葉に、ミレアは大きく頷いたのだった。
森に足を踏み入れた瞬間に感じたもの。 鳥肌が立つ、なんていう生易しいもんじゃなかった。身体中からさっと血の気が引いていくのが自分でも分かる。ともすれば、頭がおかしくなってしまいそうな程に、シダノの森は狂気に満ちていた。 これが、妖しの森…… 気配を振り払うようにして、俺は剣を抜いた。相棒から極力離れすぎないようにしながら、慎重に周囲を見渡す。 「離れ離れになるとまずい。一緒に行動しよう」 「そうね。 二手に分かれてしまうと、何かがあった時にも咄嗟に対応出来るとは思えないわ」 ミレアも背から大弓を外し、矢を一本番えた。突然の襲撃に備えるためだ。 俺もミレアも理解していた。今、得体の知れぬ何者かが俺達の前に現れようとしている事を。 そう。嫌な気配はぐんぐん大きくなってきてるんだ。まるで俺達二人を追い詰めるかの様に。 だが、肝心の場所が特定出来ない。あまりにも気配がでかすぎて、相手がどちらの方角にいるのか、さっぱり分からないんだ。 生唾を飲み込んで、俺は大声で叫んだ。 「出てこいよ!そこにいる奴!」 俺の声に反応したのか。目の前にある茂みの一角が微かに揺れる。 そこにいるのか! 俺は素早く構成を編んだ。 「吹き……荒べぇっ!」 詠唱を終えると同時に、《吹き荒ぶ真空の刃》を茂みに向かって投げつける。 「粒手よ!」 続け様にミレアが放ったのは《這い進む火の粒手》。 地を這う炎と竜巻と。異なる属性の魔法が合わさって、威力は増幅される。俺達二人の攻撃を受けて、茂みは赤々と燃え盛った。 すかさず俺達は後方へと飛び退く。 茂みの奥に目を配る。が、そこには誰もいない。 (馬鹿な……) ほんの一瞬。俺は呆気に取られて、立ち止まってしまった。 「……フィズ、後ろ!」 悲鳴に近いミレアの声が俺の耳を劈く。そこで俺ははたと我に返った。 頭で考える前に、咄嗟に身を捩る。 直後、俺の脇腹を何か熱い物が突き破った。 「グァッ!」 痛みに表情を歪め、俺はかろうじて崩れそうになる足を踏ん張った。 一体何が? 視線を真後ろに移す。 そこにいたのは、自然界には決して存在するはずのない生物だった。背丈が少々小さいものの、姿形は人間のそれに近い。 しかしながら、その生物には人間と明らかに異なる点がある。あたかも酷い火傷を負った時の様にドロドロに溶けた肌。本来眼球が収まるべき所は空洞となっている。そして何よりも異形であるのは、掌の上から覆い被さる様にして生えている爪。全身の肌は爛れているものの、五指と同化した爪だけは確かな鋭さを持っていた。 この爪が、俺の脇腹を抉ったのか…… 「この野郎……」 痛みを堪え、俺は剣を振るった。だが、力が入らない。軽々と爪で受け流されてしまう。 「フィズ!」 俺の名を叫び、ミレアが攻撃する。空を引き裂く様な勢いで放たれた矢は、狙い違わず化け物の頭に突き刺さった。 化け物の動きがぴたりと止まる。 「早く!逃げるよ!」 その隙に傍に寄って来ると、ミレアは俺の手を引いた。 「よし」 剣を鞘に納め、俺は歯を食いしばって駆け出した。足を一歩動かす度に、耐え難い激痛に襲われるが構ってはいられない。 俺には分かっていた。頭をぶち抜かれたはずのあの化け物が、未だ死んでいないのだという事が。あのまま闘い続けていれば、どうしてもこちらの方が分が悪くなる。ここは一旦逃げるのが吉ってわけだ。 だが、しかし。 「逃げるのはいいが、どこへ逃げる?」 「……分からないけど!とにかく距離を置いて、体勢を立て直さないと」 異形の相手に矢をもう一本撃ち、ミレアはさらに足を速めた。まるで予想もしていなかった敵の動きを目の当たりにして、パニックに陥りかけているらしい。混乱しているという意味では、俺も似た様なものだったが。 後ろには誰もいなかったからこそ、俺の動きは遅れたんだ。先程まで存在していなかったはずの敵が急に現れる。そんな事などあり得ない。 それともまさか、瞬間移動でもしたっていうのかよ? 沸き上がる疑問に答える術もなく、俺はただ走るしかなかった。 どれだけ走った頃だろうか? 「フィズ!あそこ!」 先を行くミレアが前方を差した。 「どうした?」 「洞窟があるの。一旦あそこに逃げ込もう!」 ミレアの指の先を追うと、確かにそこにはぽっかりと開いた洞穴がある。どうやら、地下に続いているらしい。 洞窟の中ならば、身を隠す事も可能か。何にせよ、他に選択肢はないようだ。 「分かった!」 大きく頷き、スピードを上げる。腹の怪我がひどく痛むが、躊躇している暇などない。 転がり込むようにして、俺とミレアは洞窟へと駆け込んだ。 素早く背後に目を向ける。 「追ってきてる!」 「チッ……いきなり攻撃を仕掛けたのは早まったかな」 絶望を感じさせるミレアの声に、俺は自嘲の笑みをこぼした。尤も、あそこで仕掛けていなかったとしても、どの道闘う事にはなっていただろうがな。 ミレアの言う通り、化け物は俺達の通った後をしっかりとした足取りで走り、その距離をぐんぐんと縮めていた。肌が溶け、肉が爛れているというのに存外に速い。直に追い付かれてしまうだろう。 どうするか…… 「………………」 迷いなどなかった。迫り来る敵を倒すために、再び俺は抜刀する。 「どうする気?」 切迫したミレアの声が耳に響く。 「俺が奴の相手をする。その間に、お前は洞窟の奥へと逃げるんだ」 「そんな……」 「闘いに関しては、お前よりも俺の方が得意だろ。いくら相手が強くても、時間稼ぎくらいは出来る」 「でも、その傷!」 「心配すんな、致命傷にはなってないさ」 柄を握る手に力を込める。急所こそ避けてはいるものの、そう長くは闘えないだろう。短期で一気に攻めるしかない。長引けば長引く程不利になる。 「行け、ミレア!」 敵の姿をひたと見据え、俺が叫んだその時だった。 「やめておけ。そんな身体で闘っても死ぬのがオチだ」 後ろからポンと肩を叩かれ、俺は狐につままれた様な気分になった。闘いの場において茫然自失とする事ほど愚かな行動はないのだが、あまりにも藪から棒な展開であった ミレアのものではない。が、聞き覚えのある声…… 「まさか……」 俺が振り返る前に、その男は動いていた。 化け物目がけて、男は手にした武器……槍を投げつける。 槍の穂先は、見事に化け物の左胸を貫く。 「オオオオオォォォォ……」 自らの胸元に一旦視線を向けた後。叫び声を上げ、化け物はその場に倒れ臥した。 倒したのか……? 「自然に存在する生物ならば、大抵の奴は頭を砕かれた時点で死んでいるがな。こういった魔物の類であれば、頭を潰したとしても意味を成さない場合が多い」 指先一本動かさなくなった化け物に近寄ると、男は槍を引き抜いた。慣れた手付きで、付着したどす黒い血を拭う。 平静を保とうと努力しながら、俺はその男に声をかけた。 「そいつは勉強になったよ。流石は鮮やかなもんだな……オヤジ」 そう。俺とミレアの窮地を救ってくれたのは俺達の養父、クリマ・セイルだったんだ。 「父さん?」 事態が飲み込めていないのはミレアも同じであるらしい。家でのらりくらりとしているはずのこのオヤジが、何故シダノの森の中にいるのか。皆目見当もつかないようである。 「積もる話は後回しだ。とりあえずその怪我の手当てをしておかんとな」 俺達二人の動揺など知らぬ存ぜぬといった様子で、オヤジは勝手に話を進めている。 「急所は外れているとは言え、相当の深手には違いない。おそらくは《癒しの風の息吹》でも完治する事は出来ねえだろうよ」 「チッ……相変わらず、何でもお見通しってわけかい」 オヤジ殿の洞察力に、俺はただ苦笑いをするしかなかった。 「水魔法の使い手でもいれば、より強力な治癒魔法が使えるんだがな。生憎と、ここにいるのは火と風と地の使い手だけだ。こうなると、薬で応急処置を施すしかないな。 薬の類は持ってきてんだろ?ミレアよ」 「え、ええ。勿論」 オヤジに問われ、慌てて頷いてみせるミレア。かつてスクールでも応用生物学を専攻していた彼女だから、薬学や医学の知識もそれなりにある。そちらの方面に関しては、俺も完全にミレアに脱帽だな。 「よし、決まりだ。 洞窟の奥に進んでいけば、少しばかり開けた空間がある。そこで体勢を整え直すとしようぜ」 オヤジに促されるまま、俺とミレアは洞窟のさらに奥へと足を踏み入れていった。
|
|