第三章 Love is War
豪徳寺が目を覚ましたのは夜半のことだった。 目をこすりつつ、時計に目を移す。針の指す時間は午前二時。床に入ったのが十二時を大きく過ぎた頃だったから、実質一時間ほどしか寝ていないことになる。 微睡みの中に再び身を委ねようとした時、急に豪徳寺は空腹感を感じた。気にせずに瞼を閉じようとしたのだが、このままではどうにも寝付けそうにない。 「………………」 仕方なく、豪徳寺は起き上がって何か食べ物を探すことにした。ところが、こんな日に限って食べる物が見つからない。どうやら、お気に入りのカップラーメンも切らしてしまっていたらしい。 我慢しようかとも考えたが結局空腹に勝つことはできず、豪徳寺は近所のコンビニに買い物に行くことにした。手早く身支度を整えて外に出る。漆黒の闇夜に流れる生温い空気が、彼を出迎えた。 「暑くなりそうだな。今年の夏も」 時折車が行き過ぎる他はまるで人通りも見受けられない道を歩き、豪徳寺は独り言を呟いた。例年のように猛暑と呼ばれる夏がやってくるが、今年のそれは格別のものになりそうだ。 間もなくして目的地に到着する。 店に入ろうと歩を進めていた豪徳寺は、ふと怪訝そうに顔をしかめて立ち止まった。 店の入り口を陣取るようにして、中学生と思しき少年が三人ほど屯している。往来の邪魔になるのは勿論であるし、深夜とは中学生が出歩くべき時間ではない。 (って、俺もそれだけ年食ったってことかな) 若人の行動に苛立ちを募らせている自分に気付き、豪徳寺は少し複雑な気分になった。 ともあれ、店に入るには邪魔である。声をかけるべく、豪徳寺は少年達に歩み寄った。 「コラ、お前ら!」 少年達に飛ばされたその声は、しかしながら豪徳寺のものではなかった。彼の後ろから忙しく駆けてきた一人の男が、少年達を怒鳴ったのである。 突如その場に現れた男に、少年達は睨みを利かせる。それに臆することもなく、男は声を張り上げた。 「お前ら、うちの中学の生徒だな。こんな時間に外を出歩いていいと思っとるのか!」 男が怒鳴ると、少年達は舌打ちを漏らして方々へと散って行った。男の迫力に圧されたわけでもないだろうが、ことを荒立てる気は彼らにもなかったらしい。 少年達が全員いなくなったのを確認すると、男は大きく嘆息した。そんな彼に豪徳寺は声をかける。 「あんた、学校の先生かい?」 豪徳寺の声に男は振り返った。 声の張りから年齢を想像していた豪徳寺は、男の顔を見て少し驚きを覚えた。禿げ上がった頭に皺の寄った顔立ち。風貌から察するに、年は五〇か六〇か。少なくとも、豪徳寺の想像よりも、一〇歳は老けて見える。 「はい、私はこの近くの中学校で教師をしている円山茂森(まるやましげもり)という者です」 先程とはうって変わって、慇懃に挨拶をする男。豪徳寺も慌てて頭を垂れかけたが、ふと気になることを感じ、脳裏から記憶の糸を手繰り寄せる。 (待てよ……中学校の教師をしている円山と言えば……) 無礼を承知で、豪徳寺は男の面をまじまじと覗き込んだ。年月を経た分だけ老いてはいたものの、その面には確かに見覚えがある。 「……先生」 豪徳寺の呼びかけに、教師は不思議そうに聞き返す。 「どこかでお会いしたことがありましたかな?」 「分かんないかな。俺だよ……豪徳寺康成。中学時代に国語を教えてもらってた、先生の生徒だよ」 「豪徳寺……おお、あの豪徳寺君か!」 二度目の豪徳寺の言葉で、円山もようやく思い出したらしく何度も首を縦に振った。 「ひでえな、先生。可愛い教え子のこと忘れるなんてよ」 「いやあ、すまんすまん。私も最近物忘れがひどくなってなぁ」 見事に禿げた頭を撫でる円山。 そんな恩師の仕草を見て、豪徳寺は時間の移ろいゆく早さを実感せずにはいられなかった。豪徳寺の記憶の中にある国語教師、円山の頭には今とは違って黒々とした立派な髪の毛が備わっていたものであった。 「随分年を取ったな、先生」 豪徳寺がそう言うと、円山は笑うのを止める。 「年も取る。教育という難しい問題に直面しながら、何十年もの年月を過ごしてきたのだからな」 「そうか……」 今ではすっかり大人になっている豪徳寺であるが、かつては確かに彼もまた一人の中学生であった。その頃より教師という役職に就いていた円山が、相当の経験や苦労を積んできたことは豪徳寺にも容易に推し量ることができた。 店の前でいつまでも立ち話をするのも迷惑であるからと、二人は少し離れた所に場所を移すことにする。 「私も、もう今年いっぱいで定年でね……」 豪徳寺と肩を並べて暗い道の上を歩きながら、円山はそう呟いた。 「もうそんなになるのか」 「ああ。 中学で教師を務めることのできる時間も、もう残り少ないんだ。だから、私も今できることをしようとはしているんだがね……生徒達にはどう思われているのやら」 男性教師の姿は、豪徳寺の目にはどこか寂しげに映った。 辛気くさい空気の流れを変えようと、豪徳寺は別の話題を振る。 「ところで先生。こんな真夜中に何をやってたんだ?何か用事があって、出てきたんじゃないのか」 「付近の見回りといったところだ。最近、どうにも我が校の生徒達の深夜徘徊が目立っていて、近所の人からも多くの苦情が寄せられていてな」 「深夜徘徊……ねえ」 コンビニの前に座り込んでいた少年達のことを思い出す豪徳寺。彼らが夜な夜な何をしているのかを知る由もないし、特に興味もなかったが、苦情を出されるということから察するに、一日や二日ばかりのことではないらしい。 豪徳寺は痩せこけた円山の肩を軽く叩いた。 「本当に大変なんだな、先生も」 「最近だと、どうにも子ども達のことが分からなくなってきてね。よく言われるだろう、近頃の子どもはよくキレると」 「俺らが中学生の時にだって、キレてるヤツはいたよ。別に今の子どもだからってわけでもないぜ」 「昔よりも遙かにキレる子どもが増えてきているのだよ。酷い者になると、ニュースで取り上げられるような悲惨な事件を平気で起こす。心の教育が十分になされていない証拠だ」 「う〜ん、俺も教育の難しいところはよく分かんないけどさ」 頬を掻き、豪徳寺はこう続ける。 「どんな子どもにだって可愛い所はあると思うぜ」 「どうだろうな……」 頭を振り、苦笑する円山。 教師の肩をもう一度叩くと、豪徳寺はくるりと踵を返した。 「俺、もう行くわ。久々に話ができて楽しかったよ」 「ん……ああ、そうか」 そのまま立ち去ろうとした豪徳寺であったが、言い忘れたことを思い出してもう一度だけ振り返る。 「先生。俺、時々ライブやってんだ。また機会があったら見に来てくれよな」 「ああ、分かった。またいつか行かせてもらうよ」 最後にそう言葉を交わした後、二人は手を振って別れた。 かつての恩師との一度目の邂逅の折。この時にはまだ豪徳寺は気付くことができていなかった。円山の内に潜む、大きな闇の存在に。
数日後。冬が戻ってきたのかと感じさせられるほどに肌寒さを覚えるその日、豪徳寺とニャン子はいつものようにライブを始めるべく準備を整えていた。 昼を大きく過ぎた頃の街は人通りも多く、行き交う人の何人かもまた足を止めて、すだちの二人を物珍しそうに眺めている。 そんな中、人をかき分けるようにして二人の前にやって来たのは、学生服に身を包んだ一組の男女であった。 「豪徳寺さん、ニャン子さん」 少年の方に声をかけられ、面を上げる二人。 「おお、コージか。いらっしゃい、よう来てくれたな」 馴染みの深い客の登場に、ニャン子は顔を綻ばせる。 「よう、今日は学校帰りか?」 「はい。授業が五時間目までしかなかったんで、そのままこっちに来たんです」 頷くコージ。 豪徳寺は、あどけなさの残る少年から隣に立つセーラー服の少女へと視線を移した。そして再度問いかける。 「その娘は?」 「ああ、この娘は俺の彼女っす」 『……彼女?』 素っ頓狂な声を声を上げて驚く豪徳寺とニャン子。 「ヤダなぁ。そんなにビックリしないで下さいよ。 ほら、未来(みくる)も自己紹介しなよ」 「初めまして、未来です。二人のことは、いつもコージから聞いています」 ペコリと頭を下げるコージの彼女、未来。豪徳寺とニャン子もそれぞれ自己紹介をした。 「未来が一度でいいから、すだちのライブを見たいっていうんで。今日一緒に来たんすよ」 「いや……まさかコージ君に彼女がおったとは。オジさんはちょっとまだビックリしてますよ」 なおも驚きから冷めやらぬ様子で、おどけて見せるニャン子。コージはどこか不服そうに頬を膨らませる。 「そんなに意外すか?」 「そりゃあもう……なぁ、豪ちゃん?」 「んー、まぁコージは結構いい男やからな。 二人は付き合ってどれくらいになる?」 興味津々といった様子で若いカップルに訊ねかける豪徳寺。 「まだ二ヶ月くらいなんです」 そう答えたのは未来であった。 「二ヶ月か。でも、最近だと長い方なんじゃないか?」 「友達からもよく『まだ続いてるの?』って聞かれます」 「最近は三日で別れるヤツもいるって聞くからなあ」 「でも私、まだまだコージと別れるつもりありませんよ」 「おっ、見せつけてくれるねえ。 コージも隅に置けないんじゃないの」 笑いながら、豪徳寺はコージを軽く小突いた。 「ま、あんまりデートの邪魔してちゃ悪いから……そろそろ始めよか、豪ちゃん」 「おう」 ニャン子に促され、豪徳寺はコージとじゃれるのを止める。ギターを手に持ち、二人は肩を並べた。 ギターを爪弾き、曲を奏で始める豪徳寺とニャン子。コージと未来の二人もまた他の客達と動揺、期待に胸を弾ませて、すだちの音楽に耳を傾けていた。 ミュージシャンと観客の心が一体となる一時。しかし、この日はそんな至福の時間もそう長くは続かなかった。
「コラ!」 ギターの音色をもかき消すような大声量の怒鳴り声が、その場にいた者達の耳をつんざく。 「あの声は……」 豪徳寺はギターを弾く手を休め、声の飛んできた方向へと視線を向ける。そこには、一人の教師が立っていた。豪徳寺にも覚えがある顔だった。 「ヤベ……シゲゾーだ!」 色を失い、顔を見合わせるコージと未来。 「シゲゾー?」 状況の読み込めていないニャン子が、コージに問いかけようとしたその時。 人垣を押しのけるようにして、当の男性教師が輪の中心部……すだちのステージの前へと踏み入った。 「うちのクラスの生徒が、こんな所で何をやっとるか!放課後の寄り道は厳禁のはずだぞ!」 開口一番、教師は二人の生徒を叱りつけた。ビクリと肩を震わせるコージと未来。 二人のことが不憫に思えたのか、豪徳寺が横から口を挟んだ。 「待ってくれよ、先生。その二人は別に問題行動を起こしたわけでもないぜ」 そこで初めて豪徳寺の存在に気付いたのか、教師円山は驚きに目を丸くする。 「豪徳寺君。ここで何を?」 「前に言ったろ。時々ライブをやってるってさ。 こいつらは俺達のお客さんで、ただライブを見に来てくれただけなんだ」 豪徳寺の説明に円山はしばし口を閉ざす。 「……先生?」 何かを考え込んでいる様子の円山に声をかける豪徳寺。すると円山は、どこか開き直ったようにこう告げた。 「もういい! お前達二人も今日は真っ直ぐ家に帰るんだ。説教の続きは、明日学校で行うからな」 怒りに満ちた円山の台詞を聞き、コージと未来は逃げるようにしてその場から去っていった。 後に残った円山はぶつぶつと独り文句を呟いている。 「全く……近頃の子どもというのは目を離すと何をしでかすか分からんな」 「……今のはちょっと言い過ぎじゃないか?」 豪徳寺の言葉が癪に障ったのか、円山はぞんざいな口調で彼に向かって言い放った。 「言い過ぎ?問題児を指導して、何が悪いと言うのかね?」 「コージのヤツは、本当に問題児なのか?」 「校則の一つもろくに守れんような輩は問題児に決まっとる!」 とりつく島もなく、決めつける円山。豪徳寺はこの時初めて彼に対して憤りを感じた。 円山は豪徳寺とニャン子をジロリと睨み、溜め息混じりに愚痴をこぼした。 「豪徳寺君。ライブだか何だか知らんが、うちの生徒を誑かすような真似は謹んでもらいたいものだね」 「変わったな……先生」 豪徳寺がそう言うと、円山は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。 「私が変わったのではない。子ども達が大きく変わってしまったのだよ。 とにかく、これ以上うちの生徒を妙なことに巻き込まんでいただきたい。分かったね?」 最後に強く念を押すと、円山は登場した時と同じく太々しい態度を崩さぬまま野次馬をかき分け、豪徳寺達の前から姿を消してしまった。 結局、この日のライブは中断となり、中途半端な形で幕を閉じることとなったのである。
|
|