第二部のライブを終え、帰り支度をしていたニャン子を千穂は呼び止めた。 「美馬君、良かったら少し話を聞いてくれない?」 断る理由もなかったので、ニャン子は了承する。 大半の客が帰り、先刻とはうって変わって閑散としたバーの中。その場に残っているのは、すだちの二人に千穂、そして数人の客と従業員のみ。祭りの後の静けさを彷彿とさせる雰囲気が店内には漂っていた。 ニャン子と千穂の二人は、ステージから離れた場所にあるテーブルの一つを陣取る。 「そう言えばライブでバタバタしてて、ゆっくり話もできてなかったもんな」 ニャン子は酒を口元に運びつつ、言葉を紡いだ。 「こっちにはいつ戻ってきたん?」 「結構前、かな。大学卒業して……しばらくしてから、この街に来たから」 そう答え、千穂は甘みのあるカクテルを口に運ぶ。 「そっかぁ。 やっぱり、千穂ちゃんもこの街が好き?」 「……うん」 さらなるニャン子の問いかけに、やや間を置いて頷く千穂。その後にこう付け加える。 「ここは、私にとって一番楽しい思い出のある所だから」 物憂げな表情をして喋る千穂。口を挟むことなく、ニャン子はじっとその言葉に聞き入っている。 「この街の高校に通っていた時が一番楽しかったな。 毎日勉強ばっかりして、塾とかにもいっぱい通ってたけど、それでもまだ楽しいことが沢山あった」 グラスの中のカクテルを一気に呷り、千穂はさらに続ける。 「ねえ、美馬君。私、思うんだけどね」 「うん」 「人間って……楽しむことを忘れたら、きっと駄目になってしまうんだよね」 俯いて、一言一言を吐き出すように言葉にする千穂。彼女の正面に腰を下ろしたニャン子には、彼女がどのような面をしていたのか窺うことはできなかった。 「……貴方のことが羨ましい」 「え?」 「学生時代と変わらず、音楽を追いかけることのできる貴方が……今も昔と変わらずに多くの人の心を動かすことのできる貴方のことが羨ましいの!」 グラスを叩き付けるように置き、声を荒げる千穂。 離れたテーブルで談笑していた豪徳寺や数人の客が、何事かとニャン子達の方を見やる。その視線を気にすることなく、千穂はなおも喋り続けた。 「……去年の夏にね、私ラジオを聴いてたの。ちょうど、この街で花火大会があった日のことよ」 ハッと息を呑むニャン子。一年前の花火大会の日。それは彼にとっても、決して忘れることのできない一日であった。 「今でもよく覚えてる。あの日に聴いた『哀しみは捨てていこう』。 その時には、まさか歌ってるのが美馬君だったなんて考えもしなかった。 それから何度もラジオを聴く内に、もしかしたらと思うようになったの」 「そうだったんや……」 ニャン子の脳裏に昨年の夏の一日が蘇る。目を患い、思い悩む一人の少年のために、ラジオという媒体を通じてライブを行った時の記憶が。 その少年の事情や、ニャン子と少年の経緯について、千穂は知る由もない。それにも関わらず、ニャン子の歌は一人の聴衆の……かつての級友の心を揺り動かしていたのである。 「今でもギターを続けてるなんて、思いもしなかった。もうとっくに止めてるんじゃないかって思ってた。 でも、貴方はあの頃からずっと音楽を追い続けているのよね」 千穂は、もう何度目になるとも知れぬ嘆息を漏らす。 「私には、しなければいけないことは山程あった。でも、自分がしたいと思うようなことはほとんどなかった」 「………………」 「まとまった仕事があるわけでもなし……今じゃバツ2で主人も子どももいない。バレンタインにチョコレートを渡せるような人すらもいない。結局は、手元に残ったものなんて、何にもなかったのよ。 本当につまらない女でしょう……」 千穂の告白に、ニャン子にじっと耳を傾けていた。彼女の言葉に時折相槌を打つものの、横から口を挟もうとは決してしなかった。 千穂が口を閉ざすのを待ち、ニャン子は彼女に訊ねた。 「それで、今の千穂ちゃんは、何かしたいことを持ってるん?」 「ないわ」 即答する千穂。 「あったとしても、私ももう若くはない。今からじゃ何にもできないよ」 「……そうかな?」 項垂れる千穂に向かって、彼はこう言い放つ。 「俺だって決して若くない。けどそれでも、俺には歌いたいと思う心がある。そして、俺の歌を聴いてくれる人がいる。 できるかできないかの問題じゃない。やろうとする意志があるか、ないかの問題なんとちゃうかな」 「……っ!」 ニャン子の言葉に、千穂は強い衝撃を受けた。頬面を思い切りはり倒されたような気分になり、千穂は俯き黙り込んでしまう。 そんな彼女を一瞥すると、何かを決意したようにニャン子は一つ頷いた。酒を飲み、小皿に盛られたピーナッツを平らげた後、傍らに置いてあったギターをその手に掴む。 「今夜は終いのつもりやったけど……もういっぺんだけ歌うことにするわ。 千穂ちゃんに見せたげるよ。今、俺が持っている意志の力を」
人も疎らになった会場で、イントロが静かに奏でられる。突然の追加ライブに半ば強引に付き合わされる羽目になった豪徳寺もどこか仏頂面をしてはいたものの、満更でもない様子でギターを爪弾いていた。 イントロが終わり、店の中にニャン子の声が響き渡る。かつて一人の少年のために自らの身体のことすら顧みずに、ギターを手にした男の声が。
明日また会えるね 小さく手を振って 歩道橋に消える君の姿 いつまでも見てた いくら人が居ても いくら賑やかでも 分かってくれる人 そばにいなきゃ寂しいんだね ドラマみたいに 激しい恋じゃなくて どこにもあるありふれた だけど大事な物 いつも忘れず たとえどこに居ても 君の事だけ ずっと想ってるよ
「これは……」 千穂は大きく目を見開いた。 今再びギターを手にして歌うニャン子。その姿は第二部のライブで見たものよりも、より輝いて見えた。 彼の詞に、彼の歌に、千穂は胸を打たれた。彼の音楽の中には魂がある。月並みな表現ではあったが、千穂はそう実感せずにはいられなかった。 「意志の……力」 ニャン子の言葉を反芻する千穂。 (ああ、そうか……) 改めて、千穂は自分がニャン子の何に憧れ、どこに心を動かされたのかを理解したような気になった。 決して弱まることのない意志の力。今も昔も変わることのないその力が、ニャン子の中には生き続けている。 (何歳になろうとも、自分のしたいことを追いかけることができる……自分の意志から目を逸らそうとせずに。 しようとするのか、しないのか……意志を持つのか、持たないのか。そういうことなんだよね、美馬君) 千穂はぽつりと独り言を漏らした。 「今、私がしたいこと。それは……」 あまりに小さなその呟きは、ニャン子の声によってかき消され、近くにいる者にすらその先の言葉を聞き取ることはできなかった。
両手あふれる程 贈り物をくれた それは目に見えない 形の無いものだけれど 木枯らしの吹く 凍える夜でも 君の笑顔一つだけで 乗り越えてゆけるよ いつも忘れず きっと覚えていて 君の事だけ ずっと想ってるよ
いつも忘れず たとえどこに居ても 君の事だけ ずっと想ってるよ
最後のフレーズを歌い切り、ニャン子がその口を閉ざす。その直後、曲の終了を待たずして、盛大な拍手が贈られた。 千穂もまた席から立ち上がり、二人に向けて……その内でも特にニャン子に対して両の掌を打ち合わせた。 即興のライブを終え、すだちの二人はステージから降りる。 「どうやった?」 テーブルに戻ってきたニャン子は開口一番に千穂にそう訊ねかけた。 「うん、凄かった」 「お世辞は抜きにしてくれてええで」 「お世辞じゃないよ。 適わないなぁ……本当に」 頭を振る千穂。初めのライブの際に覚えた自責や不安の念は完全になくなったわけではないが、確実に安らぎつつあった。逆境の中にある彼女であったが、ここに来て一つの光明を見出すことができたのである。 「さぁ、そろそろ帰ろうかな。いつもは十二時過ぎたら布団に入るようにしとるから、眠うてたまらんわ」 まるで子どものようなニャン子の物言いに千穂は思わず吹き出してしまう。 「さぁ、帰ろ帰ろ。お家に帰ろ」 本当に帰り支度を始めたニャン子に、千穂はもう一度だけ声をかけることにした。ほんの少し、勇気を出して口を開く。 「ねぇ、美馬君」 「うん?」 「今日はありがとう。 お礼ついでと言ったらなんなんだけど……もう一つ訊きたいことがあるの」 「何かな?」 面を上げるニャン子に、千穂は一つの質問をした。 「貴方は、いつまで音楽を続けるの?」 「そんなん決まっとるよ」 相好を崩し、ニャン子はこう答えた。 「俺が本当に『疲れた……もう満足や』って思う時までだよ」
その言葉を最後にして、ニャン子の長い語りは終わった。 話を聞き終え、豪徳寺はぽつりと呟きを漏らす。 「……あれから、何度かライブにも来てくれたんだよな、島津さん。最近はめっきり見てないけど、元気にしてるかな?」 「なあに、心配ないって。 元気にやってるに決まってるよ」 赤くなった頬を掻き、ニャン子は大きく一つ頷く。 「この俺でも何とかやっとるから、あの娘がうまくできんはずがない」 「なるほど……説得力がある」 身も蓋もない説明であっさりと納得する豪徳寺。良い具合にアルコールが効いてほろ酔い気分になっている彼に、大した判別力があるはずもなかったが、どこか温かみのあるニャン子の言葉には理屈抜きに安心させられてしまうところがあった。ニャン子がどこまでも真っ直ぐであったからこそ、千穂も心もまた安らぎを覚えることができたのであろう。 ニャン子自身、千穂が今どういった生活を送っているのかはほとんど把握していない。しかしニャン子は知っている。彼女がこれまでに衝突してきた困難な壁と向き合い、乗り越えようとしていたことを。 そうしたものを乗り越える度に、千穂は強くなることができる。ニャン子は心からそう信じていた。 「でもよ、ニャン子」 タレの滴る焼き鳥にかぶりつきつつ、話を戻す豪徳寺。 「やっぱりお前も隅に置けないよな。 知ってるんだぜ。島津さんからチョコレート貰ったってこと」 「そんなこともあったっけなぁ……」 とぼけた調子でニャン子は串に手を伸ばす。 ビールを一気に飲み干し、豪徳寺はさらに後を続けた。 「本命チョコか……全くニャン子先生が羨ましい」 「やから、別にそんなんちゃうて。俺ら、もう中学生とか高校生とちゃうんやで」 「いつも忘れずたとえどこに居ても、君の事だけずっと想ってるよ……じゃなかったっけ?」 「もう、悪酔いしすぎやで。豪ちゃん。 俺、ちょっとトイレ行ってくるわ」 いつになく絡んでくる豪徳寺から逃れるようにして、ニャン子は苦笑しつつ、席を立ったのであった。
ニャン子が席を外している間、豪徳寺は一人料理と酒に舌鼓を打っていた。 「中学生とか高校生、か……」 先程、ニャン子が口走った言葉を繰り返す。 豪徳寺の脳裏に蘇る一つの記憶。この春に経験した突然の再会と、ある一つのトラブル。 箸を動かす手は休めぬまま、豪徳寺は独りごちる。 「あいつはいいよなぁ。想い出の人がいい女で。 かたや俺の方は……」 「俺の方は、どうなん?」 突然声をかけられ、豪徳寺は危うく口の中の物を吹き出しそうになった。激しく咳き込みながら、背後に視線を移す。 「ビックリした……戻ってきてたのかよ」 「悪い悪い。驚かせてもうたみたいやな」 それほど悪びれた風でもなく、ニャン子は豪徳寺の隣に腰を下ろした。 「それで、どうなん?」 「何がだよ」 「豪ちゃんの想い出の人」 ニャン子の台詞に、豪徳寺は訝しげに眉をひそめる。 「想い出の人、なんて気色悪い言い方すんなよ。 ほら。先生だよ、先生」 「先生って、あの先生?」 『先』の方にアクセントをつけるニャン子。 「いや、そっちの先生じゃなくて」 分かりにくい彼のボケを律儀に否定してから、豪徳寺は先を続ける。 「中学時代に世話になった、本物の先生だよ。ほら、お前も会ったことあるだろ」 「ああ、あの先生かぁ」 合点がいった様子で、ニャン子は何度も頷いてみせる。 「俺が中学を卒業してからだから、こっちの方も二十年以上会ってなかったことになるな。 まさか、あんな形でひょっこり再会するとは思ってもみなかったけど」 「あの時のいざこざでは、豪ちゃん久しぶりにキレたもんな」 先程までの仕返しとばかりに、すかさず口を挟むニャン子。 「馬鹿。あんなのキレた内に入らねえよ」 大口を開けて呵々大笑する豪徳寺。 「ま、怒るだけ怒ってすっきりしたってのはあったけどな。どうしても我慢できないことってのもやっぱりあるもんさ」 「そりゃあ我慢は身体に良うないわ」 肩を竦めて、呆れたような表情を見せるニャン子。 「今となってはどっか懐かしい気もするけどな。 あれは確か……」 目を細め、当時の記憶を手繰り寄せながら、豪徳寺は話を始める。 始まりは五月。桜の花も粗方が散り、樹々の色もまた淡い白桃から木漏れ日の差すような鮮やかな緑に変化し終わった頃の季節のことであった。
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