第二章 たんぽぽ
新しい年を迎えてから一月ほどが過ぎ、世間もまた、新春を祝う浮き足立った生活からありふれた日常の生活へと変容していた頃。 通りの片隅にていつも通りに路上ライブを行った豪徳寺とニャン子は、他愛もない話に花を咲かせていた。 「高校の時はさぁ」 粗方の片付けを終え、路肩に座り込んだ豪徳寺は、スポーツ飲料水で乾いた喉を潤すと、言葉を続けた。 「チョコを何個貰えるかなんてつまんないことで、よく友達と張り合ったりしてたよな。 『俺ん家には毎年トラック三台分のチョコが届くんだ!』なんて馬鹿なこと言ってたヤツもいたっけ」 「芸能人じゃあるまいし、どっからそんだけ大量のチョコが届くねん!ってな」 片付けの手を休めぬまま、ニャン子は律儀に突っ込みを入れる。 二人の専らの話題の的となっているのは二月一四日。セイント・バレンタインデーである。愛を尊重し続け、そのために殉じることとなったキリスト教の聖人、バレンタインを記念するこの日も、現代日本においては菓子業界の販売促進のための行事としてまかり通ってしまっている。今を生きる日本人男性の大半がそうであるように、すだちの二人もまた、その聖日を女性からの甘美な贈り物を受け取る日と認識し、迫りつつあるその日の到来に期待と不安を抱いていた。 「でも、この年になっても、やっぱりチョコ貰えると嬉しいもんやな。流石にこの年だとほとんど義理チョコばっかりやろけど」 「いや、分からないぜ。熱烈なニャン子ファンの娘もいるし」 その温厚な人柄故に女性から好かれることも多いニャン子を、豪徳寺は茶化す。 「何だかんだ良いながら、結構あてがあったりするんじゃないの?ニャン子先生」 「う〜ん……まずはカミさんから一個やろ。それから……」 「調子に乗ってノロけてんじゃねえよ」 指折り数え始めたニャン子の頭を軽く叩くと、豪徳寺はやれやれと肩を竦めた。 「愛妻弁当ならぬ愛妻チョコってか。所帯持ちは羨ましいねえ」 「いや、それほどでもないで」 「ったく……」 にこにこと笑っているニャン子の顔を見て、豪徳寺は苦笑を漏らした。嫌味のない相方の物言いに、彼もまた思わず相好を崩したのであろう。 「さて、と」 二人の会話に区切りがつき、帰り支度も整ったところで、豪徳寺はその腰を上げた。 「そろそろ行こうぜ、ニャン子」 「おう」 ギターケースを手にしたニャン子も豪徳寺に従う。 二人は路上の片隅を離れ、街の中心へと歩いて行った。
豪徳寺とニャン子は互いに言葉を交わしながら、歩を進める。すれ違う人々にほとんど目を留めることもなく、二人はただただ話に興じ、歩き続けていた。 だから二人は気付かなかった。 彼らの声を間近で聞き、目を丸くして振り返り、その後彼らを凝視していた女性がいたことに。 「美馬(みま)君……?」 女性の視線の先には、ギターケースを提げたニャン子の姿があった。
その日はすだちにとっていつになく忙しい一日となった。 夜になると、二人は一軒のバーを訪れた。昼に続いて二度目のライブを行うためだ。その店は、すだちの面々にとって定期的にライブを行うための馴染みの場となっていた。 店に入り、軽く一杯飲んだ二人は早速演奏を始めた。これまでに幾度となく演奏してきた曲を二人は弾き、そして歌う。バーに集った客は常連と呼ぶに等しい面々であったが、彼らもまた飽きることなく、彼らの音楽を聴き、酒とすだちに酔いしれていた。 開始から三〇分ほどが経過し、二部構成のライブの第一部が終了する。ステージを降りた二人は客達と共に談笑しながら、しばしの間盃を進めた。 その最中、ふとニャン子は尿意を催し、席を立つ。賑わうテーブルを一人離れ、ニャン子はトイレへと向かった。 ほろ酔い気分でニャン子は用を足し、手を洗う。 トイレから出たニャン子は、ふと誰かの気配を感じ、店の入り口を見やった。そこには、ちょうど扉を開けて店内に入ってきた一人の女性客の姿があった。年の頃は四〇前後といったところか。その容貌から、ニャン子はすぐに彼女が自分と近い年齢であろうことを察した。 「いらっしゃい」 客に声をかけるニャン子。人の顔を覚えるのが苦手な彼であったが、この客についても彼には見覚えがなかった。 だがその一方、ニャン子は言い知れぬ違和感を抱いていた。 (この人、どこかで会ったことのあるような気がする。けど……どこで会ったんだっけ?) 心の内に生じた疑問を声に出すことなく、ニャン子は代わりの言葉を紡いだ。 「えーと、すだちのライブに来てくれたんかな?」 「はい」 「初めましての人だっけ?」 「そうです」 ニャン子の問いかけに、女は頷いた。 (初対面か……でも、どっかで見たことがあるような気がするんやけどなぁ) 一人訝しがるニャン子。そんな彼に対して、女はこう訊ねかける。 「あの」 「ん?」 「間違っていたらごめんなさい。 あなた、美馬弘一郎(こういちろう)君、よね?」 「え……?」 目を丸くするニャン子。目の前にいる女性が自分のもう一つの名を告げたことに対して、彼は少なからず驚きを覚えていた。 「あんたは……」 「分からない?」 どこか含みのある微笑を浮かべる女。 「無理もないのかな。別の高校行っちゃってから、全然会わなかったしね」 「あ……」 女の台詞に、ニャン子はようやく女性の正体に思い至る。確かに、彼と相対する女性の顔は、記憶の中にある一人の少女の面影を残していた。 記憶に誤りがあることを危惧し、ニャン子は恐る恐る訊ねかける。 「あの、もしかして島津千穂(ちほ)ちゃん?」 ニャン子の言葉にその女性、島津千穂は首肯する。 「そうか……随分、久しぶりやな」 「本当に久しぶりね。 ラジオで声を聴いた時から、もしかしたらと思っていたの」 「……なるほどな」 千穂がこの場に現れたことに対して納得するニャン子。ライブの情報についてはラジオの中で随時告知しているので、聴衆者であれば知っていて当然である。 「昼間も街中ですれ違ったんだけど……気付かなかった?」 「そうなん?全然分からんかったよ」 「無理もない、か。あれから二十年以上になるんだもんね」 嘆息する千穂。 「ごめん」 「別に謝ることじゃないよ。 でもビックリした……音楽、今でも続けてるんだね」 「うん」 頬を掻き、顔を綻ばせるニャン子。 「相方と一緒にすだちっていうユニットを組んでる。俺も豪ちゃんも、音楽が好きやからさ」 「そうなんだ……」 ニャン子の台詞を聞き、ほんの一瞬、千穂の表情に陰りが差した。そのことに気付き、ニャン子は不思議そうに眉をひそめた。 「どうかした?」 「……ううん、何でもないの」 千穂は無理に笑顔を作ってみせる。その素振りに何か引っかかるものを感じたニャン子であったが、あえて追求しようとはしなかった。 「まあ立ち話もなんやし、向こうに行こうよ。豪ちゃんとか他のお客さんもいっぱいおるで」 「え……ええ」 ニャン子に促されるまま、千穂は店の奥へと足を踏み入れた。 「あれ?ニャン子、そっちの人誰?」 二人の姿をいち早く目にした豪徳寺が早速声をかけてくる。 「俺の昔の同級生なんよ。今日はすだちのライブを見に来てくれたんやって」 簡単に千穂のことを紹介し、ニャン子は彼女に席を勧めた。 「お。ニャン子さんも隅に置けないねぇ」 そんなニャン子を見て、近くの客が冷やかしを入れた。 「そんなんとちゃうよ。俺とこの人とは、まぁ言うたら幼馴染みみたいなもんよ」 苦笑いを浮かべつつ、ニャン子は弁明の言葉を並べる。 「またまたぁ……本当のところはどうなんですか?」 「いやいや、何をおっしゃるやら。俺は奥さん一筋やって」 「とか言いながら、顔が少し引きつってたりして」 言葉を返すニャン子に、別の客からの突っ込みが入る。そうしている内に、ニャン子の席の周りには、男女を問わずして多くの人が寄り集まってきていた。 楽しそうに笑い、酒を飲むニャン子。かつての級友のその姿を見て、千穂もまた相好を崩し、語らいの一時を過ごしたのであった。
第二部のライブが始まった。 すだちの二人はステージに立ち、時には軽快なトークを交えつつもギターを奏で、そして歌う。CDやラジオだけでは味わうことのできない臨場感がそこにはあった。 彼らのライブをその目に焼き付けながら、千穂は大きな溜め息をついた。 (変わってないな、美馬君) 彼女の記憶の中にある高校時代のニャン子もまた、一人のミュージシャンであった。一〇代の少年であったその頃、ニャン子は輝いていた。そしてそれは、二十数年の年月が経った、今でも変わることはない。 それに比べ、自分はどうだろうか? 千穂は自分の半生を振り返る。 父親の突然の転勤のためこの街を去った後、千穂はそれまでにも増して勉学を積み重ねた。幼少の頃より、鉛筆を持つばかりの教育を受けてきた彼女である。有名校に進学することこそが終着点であると信じ、疑おうとすらしなかった。 ところが、その結果はどうだろうか? 確かに、有名大学に現役入学することはできた。けれどもそこで、彼女は初めてはたと我に返ったのだ。 (これから私は何をすればいいの?) 手探りの状態で、千穂は答えを探した。それでもまるで答えは見えてこなかった。 大学を卒業し、職に就くことができた。だがそれは彼女がしたいと望む仕事ではなかった。名声もあり、地位も保証されている。しかし……それだけである。千穂にとって、望むものはそこには存在しない。 大学を出てから数年後。千穂は唐突にその職を手放してしまった。 結婚は二度もした。そして二度とも別れた。子どもは一人もいない。 今現在。母方の実家があるこの街に身を寄せ、パートや内職で生計を立てる毎日が続いている。日々の暮らしを顧みて、千穂はどうしても自分の生活が幸せであるとは思えなかった。 一体、自分はどこで道を間違えてしまったのだろうか? ライトに照らされ輝くステージの上で、自らの作った歌を熱唱するニャン子の姿を見て、千穂は自問せずにはいられなかった。
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