第一章 明日へ
聖夜の到来が目の前に迫り、世間もすでにクリスマスの色を醸し出し始めていたその頃。 豪徳寺とニャン子の二人は公園にて路上ライブを行っていた。季節柄に合わせ、曲の中にもクリスマスソングを取り入れながら、二人は歌いギターを爪弾く。だが、足を止めてその演奏に耳を傾けようとする者など、ほんの疎らにしかいなかった。 「……今日はお客さんもあんまり来てくれんな」 一通りの曲を弾き終えたニャン子は、大きな溜め息と共に白い息を吐き出す。 「ま、こういう日もあるさ。年の暮れともなりゃあ、みんなそれぞれ忙しいんだろうぜ」 そんなニャン子を励ます豪徳寺の声にも、どこか張りがない。ライブと聞けばいつも顔を見せる馴染みの客達の姿も今日は見受けられず、彼もまた寂しさを感じていた。 「今日の演奏を始めっから聴いてくれてたお客さんと言えば」 喋りながらニャン子はベンチの傍らへと視線を移す。 「あそこにいる猫くらいのもんやな」 つられて豪徳寺もそちらを見やる。黒い猫が一匹のんびりと髭の手入れをしているのが、サングラス越しに彼の目に映った。 「猫が顔洗ってらぁ……こいつは一雨来るんじゃないか?」 「ああ、曇ってきたなぁ。降ってきそうな感じや」 空を仰ぎ、忌々しげにニャン子は呻く。陽はすでに雲によって遮られ、つい先程まで青かった空もどんよりとした灰色へと変化してしまっていた。 「今日は早いとこ、上がろうか」 「そやな」 演奏を止めたところで、アンコールを求める客がいるわけでもない。二人はそそくさと片づけを始めた。黒猫はその様を何か珍しいものでもあるかのように眺めている。 「あの猫、野良にしては随分と毛並みがいいよな」 「ニャン子だけに猫と会話できたりするんじゃないのか、お前?」 「あはは、ほなやってみよか」 冗談を交わしながらも豪徳寺とニャン子は手早く片づけを終えた。楽器類を持ち、二人は公園を後にしようとする。 その時、猫は初めてその腰を上げた。そして『にゃあ』と鳴き声を上げると、そのまま走り去って行ってしまった。 「……ん?」 猫の走っていった方を眺め、豪徳寺は怪訝そうに眉をひそめる。 「どうかしたん?豪ちゃん」 「ああ、いや……ちょっとな。 悪いけど、ニャン子。先帰っててくれないか?」 「そら構わんけど……」 相方の意図が読めず困惑を隠せないニャン子。 「じゃあ、また後で」 豪徳寺は軽く手を振ると、猫の後についていってしまう。 「……一体何があったんやろ?」 後に残されたニャン子は訳が分からないといった面持ちのまま、一人首を捻ったのであった。
自分達の方に駆けてくる一匹の猫の姿を目に留め、ブレザー姿の少女はその足を止めた。 「どったの?サキ」 隣を歩いていた友人が不思議そうな表情を浮かべて、少女サキに尋ねかける。 「いえ、ホタルが……私の猫が歩いていたものですから」 返事をして、サキは猫を指さした。 「この猫、サキが飼ってるの?」 「ええ……こちらに転校してくる前から、ずっと飼っていた猫です」 「へぇ……」 興味をひかれたらしく、友人は膝を曲げて腰を下ろし、猫の頭や喉を撫で始めた。 「あたしん家犬飼ってんだけど、こうして見ると猫も可愛いよね」 「そうですね。ホタルは私にとっても、大事な家族ですから……」 『たった一人の家族ですから』。口をついて出そうになった言葉を、サキは素知らぬ顔をしたまま押し殺す。 誤魔化しの意味も含めて、サキはすぐさま話題を逸らした。 「それにしても珍しいですね。ホタルが一人でこんな遠くにまで出てくるなんて」 「そうなの?」 「ええ。特にこのような不慣れな土地ともなると……」 ふとそこで言葉を止め、サキはちらりと前方を見る。 猫を追うようにして、サングラスをかけた一人の男が後ろから現れた。 「あれ?あの人……」 サングラスの男に気付き、友人が声をあげる。 「あの人見たことある。通りや公園でよくギター弾いてる……」 「梓(あずさ)さん」 男から視線を逸らさぬまま、サキは梓という名の友人に告げる。 「あの方と少しお話したいことがあるんです。申し訳ありませんが、先に帰っていただけないでしょうか」 「あの方って、あのおっさんと?」 「ええ……」 梓はサキと男の顔を交互に見やる。 二人の間にただならぬ空気を感じたのか。程なくして梓はこくりと首を縦に振った。 「分かった……って言ってもよく分からないんだけど。 じゃあバイバイ」 「ええ、また明日」 サキとホタルに手を振りながら、梓は街の喧噪の渦の中へと一人消えていった。 友人の姿が見えなくなったのを確認し、サキは眼前に立つ男、豪徳寺に話しかける。 「久しいですね、豪徳寺康成さん」 「ああ、八月以来だな。 以前とは制服が違う……転校したのか?」 「………………」 豪徳寺の発した問いに、サキは何も答えを返さなかった。 「まあ……いいさ。 お前のことはプッチーから色々と聞いてた。もう一度会って、話をしたいと思ってたところなんだ。何せ、あの時は話をするどころじゃなかったからな」 「もう過ぎたことです。私には背負うべき過去などありませんから。 私に必要なものがあるとすれば……」 途中で言葉を切ると、サキはその場にしゃがみ込んだ。ホタルを抱きあげ、その顔に頬ずりをする。 「……それで、今もどっかの男の元に転がりこんでるのか?」 「ええ。 その方のお力添えがありまして、私も今新たなる学校に通っています」 「そうか……」 目を細める豪徳寺。サキはさらに言葉を紡ぐ。 「花火大会の夜にこの街を出て……日本各地を転々として来ました。そうしてまた、この場所に戻ってきた」 「たった数ヶ月の間に日本全国を?」 サキは首肯する。 「どの地でも、あまり長居はできませんでしたから。またすぐ、この街からも去ることになるかと思います」 「別に他人の行き方にどうこう口を挟むつもりはないが……」 どうにも合点がいかぬという顔をして豪徳寺は訊ねる。 「なら何故戻ってきたんだ? 前の男が恋しくなったってわけでもないんだろ?」 「先程申し上げた通りです。私は過去に縛られるような生き方はしません。 ただ……」 「ただ?」 ほんの一瞬躊躇したサキであったが、そのまま先を続ける。 「強いて理由を挙げるとすれば、あなた方の音楽を聴きたいからといったところでしょうか」 「俺達すだちの曲を?」 「はい。一度、見てみたいと思ったのです。あなた方の行うライブというものを」 「そいつはタイミングが悪かったな」 ばつが悪そうに豪徳寺は苦笑を漏らす。 「今日もライブをやってたんだが、ついさっき終わったところだ。天気もあまり良くなさそうだしな」 「そうですか……また別の機会があればいいのですが。私がこの街に滞在している間にね」 淡々と語るサキの前で、豪徳寺は訝しげに眉間に皺を寄せている。彼女の真意が掴みきれず、困惑を隠しきれないといったところだろうか。 だが、サキは決して奸計を巡らせているわけではなかった。彼女の発した言葉は、偽りなき本心だったのである。 「……少し長話をしすぎたようですね」 語るべきことを全て語り終えると、サキはホタルを地に降ろした。一人と一匹は共にくるりと踵を返す。 「また、明日もここに来ようと思います」 「ああ、分かった」 「では……参りましょう、ホタル」 その場から立ち去ろうと歩を進めるサキであったが、ふと何かを思い出したように立ち止まる。 「プッチーは」 「ん?」 「プッチーは……もうこの街にはいないのですね」 振り返らぬまま、確認するようにそう訊ねる。 「ああ……」 どこか乾いた豪徳寺の声を耳にし、サキはほっと息をついた。 「そうですか……残念です」 彼女の白い息は風に吹かれ、すぐにその姿を消してしまった。
サキとの再会を果たしたその夜。ラジオ番組に出演するため、豪徳寺は地元の放送局を訪れていた。 番組が始まる前の空き時間に、豪徳寺はニャン子を捕まえてライブの後の出来事の一部始終を話す。 「そんなことがあったんや」 一通りの話を聞き終え、ニャン子は顔をしかめて唸る。 「あの時俺も一緒におったけど、あの娘がいたなんて全然気付かんかったな」 「お前はちらっと会っただけだったろ。ま、忘れてても無理ないさ。 俺は……あの娘とも随分色々あったからな。一目見て、分かったよ」 「そっか」 茶の入ったペットボトルから口を離すと、豪徳寺は頭を振る。 「あの事件から数ヶ月が経った。俺やニャン子、魚住に拓也……プッチーだってそうさ。あの一時を共有した人間のほとんどが新たなる一歩を踏み出し、今を懸命に生きてるんだ。 けど、あの女子高生……サキに限ってはそうじゃない」 「あの八月から、ずっと時間が止まってるってこと?」 「あるいは、もっと前からなのかも知れないけどな」 番組開始を控え、忙しそうに動き回るスタッフ達をちらりと一瞥し、豪徳寺は先を続けた。 「サキだけなんだ。サキだけがずっとその場で立ち止まり続けている」 サキの生き方に異論を挟む豪徳寺であったが、彼自身彼女の行動を咎めようという気はなかった。本来であれば、高校生とは親からの保護、支援を受けるべき年代であり、豪徳寺自身もそうした高校時代を過ごしてきている。彼女に頼るべき親がいないということにも何かしらの理由があるだろう。相手の都合を知らずして自らの理念を押しつけるほど、豪徳寺は身勝手な男ではなかった。 ただその一方で、彼女の行動を良しとできぬ部分もある。豪徳寺は心の中でいつしか葛藤を覚えていた。 その果てに豪徳寺はある一つの決意をする。 「なぁ、ニャン子。一つ頼みを聞いてくれないか」 「ライブのことやな」 「ああ」 ニャン子の言葉に頷く豪徳寺。 「また明日も、今日と同じ場所でライブをしたいんだ。付き合ってくれよ」 「やらいでか」 相好を崩し、ニャン子は子供のような屈託のない笑顔を見せる。 「俺達の音楽を聴きたいっていうお客さんが一人でもいてくれるんなら、その期待に応えるんが礼儀ってもんやろ」 「……サンキュ」 機嫌を損ねることもなく快く了承してくれたニャン子に対して、豪徳寺は心から礼を告げたのであった。
六畳間の部屋の片隅に、サキはホタルと共に座っていた。すやすやと眠るホタルの背を優しく撫でるサキの表情は、非常に穏やかなものであった。 だが、彼女にとっての安息の一時も、すぐに破られることとなったのである。 「サキ!」 耳を裂くような怒鳴り声に、サキはその美しい顔をしかめた。 むせ返るようなアルコールの臭気を漂わせながら、ビール缶を手に持った中年の男が一人、どたどたと足音を響かせてサキの元にやって来る。 「手前、いつまで猫とじゃれてやがる!そんな奴放っといて、早く俺の相手をしろ!」 「静かにしてあげて。あなたがそうやっていちいち怒鳴るから、ホタルもいつも怖がっているの。今やっと寝ついたところなのよ」 なおも起きる様子のないホタルから目を逸らさぬまま、サキは男と顔を合わせずに呟いた。 「だからそう怒鳴らないで」 「うるせえ!」 男はサキの膝からホタルを掴み上げると、そのまま床に叩き付けた。さしものホタルもこの仕打ちは堪らないとばかりに目を覚まし、激しく鳴き喚く。 「ホタル!」 彼女らしくもなく焦燥を露わにして、叫び声をあげるサキ。それが気に入らないのか、男はなおもホタルを蹴り上げようとする。 「やめなさい!」 サキは力強く男の頬を引っぱたいた。 男はサキを睨み付ける。その瞳の中には紛れもない憎悪の炎が燃えたぎっていた。 「……出ていけよ」 赤くなった頬をさすりつつ、男はサキにそう告げる。 「お前は俺よりもその猫の方が好きだってんだろ。 もうここにお前を置いてやる義理はねえ。どこへなりとも、とっとと失せろ!」 「……そうさせてもらうわ」 冷めたようなサキの言葉を耳にし、男は初めて我に返る。しかし、その時には全てが遅すぎた。 サキは床に蹲ったまま、ピクリとも動こうとしないホタルを抱き上げた。 「ま……待てよ、サキ」 荷物の整理を始めたサキを見て、男はそれまでとは一変して、慌て始める。 「お前、本当に出て行くのか?」 「そうしろと言ったのはあなたよ」 振り向きもせず、冷たい声でサキは言い放つ。 「俺の元を離れて、どうやって生活していくつもりだ?」 「また……流れるだけよ」 サキは目の前にいる哀れな男のその顔をじっと眺めた。 その粗暴さ故に妻子と離縁し、手元に残ったのは財産のみ。かつて家庭を失った男は、今また新たなる人間を失おうとしていたのである。 「よく考えろ。身寄りのない子供が一人で生きていけるほど世の中は甘くないぞ」 「ええ、重々承知しているわ」 「俺の元にいてくれるならば、欲しい物は何だって買ってやる。金だってやる。何一つ不自由な思いなどはさせん」 「………………」 男の台詞にサキは呆れたように嘆息した。 「私はそれで良くとも……この子が耐えられないわ。 さよなら。明日にでもすぐにこの街を出ていくから」 告げるべき言葉を告げ終えると、サキはそのまま後ろを振り返ろうともせずに、男の元を去って行った。 後に残され、呆然として座り込んでいた男は、床の上に大の字になって横たわる。 「う……う……」 嗚咽を漏らし、男はむせび泣き続けた。いつまでも、いつまでも……
「………………」 僅かばかりの荷物の入った小さな鞄を片手に提げ、サキは黙々と歩き続けた。もう片方の手の中には、ぐったりとしたホタルの姿がある。 「ごめんなさい……」 やっと聞き取れるほどの小さな声で、サキは独りごちる。 「痛かったでしょう……ごめんなさい、ホタル……」 歩を進めつつ、彼女はそのか細い肩を震わせていた。目の奥より溢れ出てしまった、一雫の涙を地面にこぼして……
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