すだちの代表曲『優』、そしてその他数曲を歌が終わったところで、一度目のCMが挟まれた。 カフを下ろした直後、ずっと堪えていたものを一気に吐き出すように、ニャン子は大きく咳き込んだ。 「大丈夫ですか?」 その丸い背をさすりながら、プッチーが心配そうに声をかける。 「大丈夫……って言いたいとこやけどな」 荒い息をついて、ニャン子は表情を歪めた。 「正直あかんわ。腹はズキズキするし、頭もクラクラしてる。それに今にも吐きそうや」 「本当に無茶はしないで」 そう切り出したのは、彼の正面に腰を下ろした居村だった。 「自分の身体のことも少しは考えないと。無理してると取り返しのつかないことになるわよ」 眉間に美しい皺を刻み、厳しい口調で居村は諭す。 二人が心配するのも至極当然のことであった。ニャン子の意識が戻っているだけでも、奇跡的なことなのである。そんな状態で歌を歌うという行為は無謀としか言いようがない。 だが、それでもなおニャン子はマイクを手にしようとするのだった。 「二人ともありがとうな……今日のラジオが終わったら病院でしっかり休むよ。 でも今は……お寝んねしてる場合やないんや。俺、約束したんやから……」 次は間違わないようにと歌詞カードを確認しつつ、ニャン子はそう呟いた。それは二人に対しての言葉というよりは、自らに言い聞かせているようだった。 『CM終わります』 大野の声をイヤホン越しに聞き、ニャン子は再びカフに手を伸ばした。 合図を確認してカフを上げ、その口を開く。 「さて……夜も更けて参りました。私ニャン子の生ライブ、皆様お楽しみいただいているでしょうか?」 努めて平静を装い、ニャン子は一人トークを進める。 「私の歌に耳を傾けてくれている全ての人に伝えたいことがある……だから今日は心を込めて歌います。 それではお聴き下さい。すだちのオリジナル曲……『哀しみは捨てていこう』を」
迫り来る拳をさっと受け流し、豪徳寺はその足を振り上げた。 「フッ!」 相手の顎を目がけて鋭い上段蹴りを放つ。 正中線を見事に捉えた蹴りがヒットし、その巨体が大きく傾ぐ。休む間も与えず、豪徳寺はがら空きになった腹に正拳突きを叩き込んだ。 悲鳴を上げることすらままならず、男はその場に崩れ落ちた。 それが魚住の用意していた切り札……OB達の最後の一人であった。 「終わりかよ」 口元に滲んだ血を乱暴に拭うと、豪徳寺は魚住に向き直った。 「豪徳寺」 憎む相手を前にして、魚住は食いちぎれるほどに唇を噛みしめる。 「……かかって来い」 そんな魚住を挑発するかのように、豪徳寺は一歩前に踏み出す。 「お前の兵隊もこれで全滅だ。もう後はないぜ」 「チッ!」 小さく舌打ちをして、魚住は飛びかかった。必要以上に大振りなモーションからストレートを打つ。 「お前のせいで、僕の人生は滅茶苦茶になった!僕の約束されていたはずの将来も……お前に砕かれたんだ!」 攻撃を難なく避け、豪徳寺は吐き捨てるように言い放つ。 「ざけんなよ。お前に泣かされた人間だっていたんだ」 「うるさい!」 荒い鼻息をつきながら、さらに何発ものパンチを繰り出す魚住。豪徳寺はそのことごとくを見切り、難なくかわしていた。 「約束された将来だと?何もかもを金で飼い慣らすことなんかできると思ってんのか? 人の心だってそうだ。大方、あの女子高生のお目当ても……」 「黙れぇ!」 何度目になるだろうか。やぶれかぶれの魚住の攻撃を豪徳寺はやり過ごす。 だが、直後。 「……っ!」 腹を押さえて、豪徳寺はその場にうずくまった。 魚住の手には一本のナイフが握られていた。先ほどまでの攻撃はフェイント……本当の彼の狙いはこちらにあった。 「お前にサキの何が分かる?何も知らずにサキのことを口にするな!」 唾を撒き散らして破顔する魚住。 狂気が全てを支配する部屋の中に、ラジオから奏でられるその曲が響き渡る。
温室で育ち 大きく咲く花じゃなく 雨に打たれながら でも負けない花のように
「……しまいに刃物かよ。正々堂々って言葉を知らないのか、お前は」 「なっ……!」 何ごともなかったかのように立ち上がる豪徳寺。それを目の当たりにして、魚住は動揺を隠しきれずにいた。 ナイフは深く豪徳寺の腹を薙いだはずだった。致命傷を負わせたはずの相手が何事もなかったかのように立ち上がったことで、魚住は完全にパニックに陥っていた。 「ど、どうして……?」 「どうせこんなことだろうと思ってな」 そう言って、豪徳寺は服の下からナイフの跡のついた雑誌を取り出した。 「それなりの準備はしておいたよ」 「ク……」 ナイフを握り直そうとする魚住の手に。豪徳寺はハイキックを放つ。ナイフは魚住の元を離れ、あらぬ方向へと飛んでいった。 全ての武器を失った魚住の顔に初めて困惑の色が浮かぶ。 「よく覚えとけ」 大きく拳を振りかぶる豪徳寺。 「温室で育つばかりが花じゃない、雨に打たれながらも負けない花もあるんだってことをな!」 渾身の力を込め、豪徳寺は魚住の横っ面にその拳を叩き込んだ。
「『哀しみは捨てていこう』……」 ラジオから流れてくる曲を。拓也は何度も耳にしたことがあった。しかし、この日のそれは今までに聴いたものとは明らかに違っていた。 暖かく包み込むような歌声が拓也の心を打つ。
生きていくことは けしてレースじゃないから 一番大事なこと それは君の心の中に
これまでニャン子が自分に伝えようとしてきたこと……それを素直に受け止められるような気がしていた。 「僕の……心の中」 拓也はフッと目を閉じる。 (そっか……そうだったんだ) 恐怖の奥に隠されていた感情。拓也は初めてその存在と向き合うことができた。 その感情とは、即ち願う心。 「僕は……見たい。まだこの世界を見ていたい」 窓の外の花火。そして窓に移る自身の顔。そうしたものを見ながら、拓也はより強く願わずにいられなかった。 胸の内にある恐れがなくなったわけではない。けれども、焦りが少しずつ和らぎ始めていた。 「僕……手術を受けるよ。 ありがとう……ニャン子」 内から溢れる感情を抑えきれずに、拓也の頬を一雫の涙が伝い落ちた。
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