看護婦の怒声に胸中で詫びを告げ、スピードを緩めることなく数段とばしに階段をかけ登る。 ニャン子が何者かに襲われ、意識不明の重体となっている。そのことが尾崎の耳に入ったのは、事件から一夜が明けた日のことであった。知らせを受けた彼女は、急ぎニャン子の入院している病院へと駆けつけたのであった。 走りながらも、尾崎はかつてニャン子に言われた言葉を頭の中で反芻させる。 『あんまし自分を卑下するもんじゃないさ。 それにこうも考えられるやろ。自分にしかできないこともある、ってね』 (私にしかできないこと……) それはあの日以来、ずっと考え続けていたこと。しかし、尾崎自身まだ答えを掴めてはいない。 それでも尾崎は走らずにはいられなかった。果たして自分にどれだけのことができるのか分からないとしても。 廊下を駆け、病室の前に辿り着く。ノックをすることも忘れ、尾崎は扉を開いた。 「ニャン子さん!」 部屋に一歩踏み入る尾崎。その目に真っ先に飛び込んできたもの……それはもぬけの殻となったベッドだった。 「……?」 狐につままれたような顔をして、尾崎は室内を見渡す。だが、愛くるしい男の姿はどこにも見受けられない。 あるはずの主を欠いた病室、それはより一層閑散としているように見えた。
それからおよそ十時間ほどが過ぎた頃。 放送局内のスタジオで、大野はある決断を迫られていた。 ふと思い出したように大野は時計に目をやる。針が指している時刻は八時半。この日のナイターは中止となったため、番組は定刻……九時よりスタートすることになる。皮肉にもそれは最悪の偶然だった。 どうしようもない焦りを抑えきれず、大野は頭を抱え込んだ。 「ねえ、どうするつもりなの?」 居村の問いかけにも大野は反応を示さない。 「時間がないわ。今日の予定を組み直さないと」 「………………」 「大野君」 と、なおも居村が口を開きかけたその時。 「大野さん、居村さん」 スタジオの扉を開けてプッチーが入ってきた。 「どうだった、プッチー?」 「駄目です。豪徳寺さんとは連絡がつきません」 「そっか……」 二人は顔を見合わせ、大きく嘆息する。魚住という男の暴走を知った今、豪徳寺がどこで何をしているのかは容易に想像が付く。そしておそらくは、豪徳寺が今日この場にやって来ることはないだろう。 「とんだ大番狂わせね……パーソナリティーがこれだけ揃わないなんて」 「……」 居村の呟きを耳にしたのか。大野は重い口を開く。 「今日は……ニャン子さんにとって大切な日だったんですよ。だから、俺は今日の放送をニャン子さん一人に任せることにした……」 「そちらの詳しい事情は分からない。けど、よほどのことがあったんでしょうね」 「ええ。ですから俺は、ニャン子さんの意志を無駄にはしたくない」 「……私だってそう思うわよ」 苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべる居村。それもほんの一瞬のことで、すぐさま気丈さを取り戻す。 「でも、このまま悩んでても何も進展しない。できることだって限られているはずよ。 私、リスナーを裏切るようなことだけはしたくないの」 「………………」 その言葉で踏ん切りがついたのか。大野は面を上げた。 「分かりました」 ある種の決意のこもった眼差しではっきりとこう告げる。 「俺達で、できるだけのことをしましょう。 居村さん……今日の放送、お願いします。それから、プッチーもトークの方に参加してほしい」 大野の指示に首肯する居村とプッチー。 「もう時間がない。急ぎましょう」 重い腰を上げ、大野がスタッフ達に指示を与えようとした直後。 「ちょっと……待てや」 ドアの開く音と共に、耳に馴染んだしゃがれ声がスタジオの中に響き渡った。
遠くからドォン、という音が聞こえてくる。それに気付いた拓也は頭を上げ、窓の外に目を移した。 「あ、花火」 夏の夜空に咲く花火。それは決して大きくもなければ、とりたてて派手というほどのものでもない。 「しょぼ……」 カーテンを閉めようと手を伸ばす拓也だったが、何か思うところがあったのか、その腕を引っ込める。 「ニャン子、一体何を……」 窓の外を眺めながら、ぼんやりと拓也は独りごちる。 「……聴かないってわけにはいかないか」 番組の開始時間が近づいているのを確認し、拓也はラジオのスイッチを入れた。ほぼ同時に聞こえてきたのはリズミカルなCMソング。しかし今の拓也にとって、それは鬱陶しいものでしかなかった。 CMが終了し、九時を知らせる時報が鳴り終えた直後。 「……これは」 その音楽を耳にして、拓也はハッと目を見開いた。
Time goes by もう少し君だけ見てたかった Ah...時が速すぎて この指をすべりぬけた
「どういうことだ!」 ラジオから流れてくるその音楽を耳にし、魚住はまだ中身の残っているビールの缶を思い切り壁へと叩きつけた。 豪徳寺とニャン子という二人のパーソナリティーを失ったラジオ番組が壊れていく様を嘲笑う……そんな目論見が容易くも崩れ去り、魚住は冷静さを欠いてしまっていた。 「何故だ……何故この男が歌っている? こいつは、身動きすら取れない重傷だったはず……」 落ち着かない様子で、魚住は部屋の中を右往左往する。 「焦るな……そうだ、こいつはCDだ。そうに違いない!」 結論に至ったところで、しゃがれ声の男の歌が再び耳に入ってくる。 『さよなら優しい人よ 誰よりも大切に思うよ』 「歌詞を……間違っている?」 自分の結論が誤っていたことを知らされ、さらなる驚愕にうち震える魚住。 魚住の記憶が正しければ、この部分の歌詞は『優しい人』ではなく『愛しい人』であるはずだった。無論ながら、あらかじめ収録してあるものを流しているのだとすれば、このような間違いなど起こるはずもない。 「そんな……馬鹿な」 苦悩の呻きを漏らす魚住。 「ぎゃあああぁぁぁ……」 突如、凄まじい絶叫が魚住の鼓膜を震わせる。 「な……」 「う、魚住さん……!」 それに少し遅れる形で部屋のドアが開かれ、顔を腫らした男子生徒が飛び込んできた。 「チーム……全滅……させられました。 それに……こ、ここも……………」 最後まで言い切ることができぬまま、男子生徒はバタリと床に倒れ伏す。その背後からサングラスをかけた一人の男が現れた。 「よう、久しぶりだな」 「豪徳寺!」 憎き相手との数十年ぶりの邂逅に、魚住は大きく息を呑む。 「少しばかりお痛が過ぎるぜ。 魚住、お前よくもニャン子に手ぇ出しやがったな」 セリフと共に、豪徳寺はくわえていた煙草を吐き捨てた。 一瞬、呆気にとられていた魚住であったが、すぐさま余裕を取り戻した様子で唇の端をつり上げる。 「……もしものために準備しておいて良かったよ。安い買い物じゃなかったけどね」 「?」 言葉の意味が解せぬらしく、眉をひそめる豪徳寺。 「分からないかい?まあ、すぐに教えてあげるよ」 嘲笑の笑みを浮かべたまま、魚住は背後のドアを荒々しく開いた。 「出番だ……来い」 その声に呼応するかのごとく、隣りの部屋から数人の男達が姿を現した。いずれも強面で、引き締まった身体つきをしている。 「まだ残ってたか。お前のお抱えチームならほとんど潰したってのに」 臆することもなく、いかにも面倒臭いといった風に豪徳寺は肩をすくめた。 彼の態度に不満を覚えたのか、魚住は舌打ちをして背後の男達に指示を出した。 「金ならいくらでも出す。だからこの男を倒してくれ」 その言葉に従い、男達は豪徳寺の方へと歩み寄った。 「学生にしとくには老け顔が多すぎるな。 なるほど、あんたらのことか。山下さんが言っていたOB連中ってのは」 豪徳寺はかけていたサングラスを外す。露わになった彼の瞳には、紛れもない怒りが込められていた。 「けどよ……それがどうしたってんだ? 金に尻尾ふってる野郎なんざ、今も昔も俺の敵じゃねえんだよ」
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