「ふわあぁぁぁ〜あっと」
レジンを出て三日たった。未だ完全に治らない全身の筋肉痛に悩まされながらも、慎重にハンモックから体を引き剥がす。 あくびの後に目をこすりながら厚い二重ガラスの向こうを見ると、どこまでも透き通ったきれいな海中景色があった――が、今日はやけに上下している気がする。 首を傾げながらも服を着替えようと床に足を降ろした途端、 「――ぅわっ」 船体が大きく揺れ、わたしは危うく転びそうになった。廊下でも、バランスを失って転んだのか驚いたのか、小さな悲鳴が聞こえた。 「――お、おはようセリナ。大丈夫だった?」 よろよろと、頃合を見計らってナギが入ってきた。 「うん、おはよナギ。この揺れ何?外は大荒れ模様?」 「いいえ、今日はいたって快晴よ。むしろ風もない完璧な凪ね」
甲板に出ると、ナギの言う通りだった。澄み渡った青い空には雲一つなく、風もそよとも吹いていない。それなのにも関わらず、波だけが高く踊っていた。 「・・・変なの〜・・・――っいったぁ?」 海に放り出されないように柵に捕まり、押し寄せる波を見ていたわたしの首筋に、突然痛みが走った。けどそれは、痛いと感じた途端に消えてしまった。なので、?マークを浮かべながらその部分をさすっる。 「どうしたの?」 ナギには何でもないよと答え、同じように海を見ていた船員さんに尋ねた。 「ねえ、この状況は何?なんでこんなに波ばっかすごいの?」 「オーレが知るけー。こんなこたぁいーち度もねがったでよ、オーレにもわがらんよ。――こんりゃー、キーリス着くの遅れっちまいそうだぎゃー。連絡いれとかにゃー」 それだけ言うとおじさんは、船の中へと戻って行った。 「・・・・・・・・・」 波は、依然として進行方向から押し寄せた。
ふら付きながらも何とか朝の仕事を終えて、遅めの朝食を料理人さん達と取っていた。と、大方胃におさめた頃、デッキが急にざわつき出した。 「・・・どうしたんだろ?」 「さあ・・・何かしらね」 好奇心がむくむくと頭を上げる。私たちは残りを掻き込んで素早く食器を洗うと、甲板へ飛び出していった。
「――っつ!」
まただ。またあの痛みが走った。仕事をしている間も何度かあった。太い針で刺されるような痛みで、その度に見を強張らせていた。けれど、いくらそこを触っても、何も異常はないし痛みもすぐに消えてしまう。 何だろうなぁ?と、気味の悪さを感じつつ、わたしはナギと階段を駆け上がった。 甲板には大勢の船員が詰め掛けていた。それぞれが口論したり指を指したり、話し合ったりしている。 船体が大きく揺れた。起きた時より格段に波は高くなっている。 「ねえ、どうしたの?」 「おう、嬢ちゃん達。危ねーから中に入ってた方がええぞー」 「何があったのですか?」 追い返そうとするおじさんに、ナギがもう一度尋ねると、渋々といった感じで教えてくれた。 「――あれだよ」 示した先には、白い何かが動いていた。遠くてよく見えないけど、雲の類じゃないことは確かだ。 「あれは・・・?」 「わーからん。ちーっと遠いしのぅ。とにかく、俺らの進路塞いどるっちゅー事は言えるのぅ」 あれが何なのかはわからないけど、きっとこの波の原因だろう。白いものが動くたびに新しい波が生まれていた。 「――あっ、船長!」 騒ぎを聞きつけて、ガドガが船内から姿を現した。 「おう。あれがワッシらの邪魔をしてる奴か」 「船長、どうしましょうか」 「そうじゃなぁ・・・こりゃあ遠回りするしかねえなぁ。あんだけ暴れられちまやぁ、こっちが危険じゃけーの。連絡はもう入れたんじゃろ?」 そうして大きく迂回する経路を取る中、首筋の痛みは波と共に断続的に続いた。
「おぉ・・・」
行く手を阻む白いものに一層近付いた時、船員達の口から、溜め息のような歓喜の声が洩れた。 太陽は高く、真上にいた。 わたしも、痛みを忘れてそれに見入る。 細長く、光の角度によって色の変わるうろこ鱗で覆われた体。流線型をした頭部からは、背中に向かって捻じれたツノが二本、流れるように生えている。そして、それが口を開けば、どんな歌い手でも敵わない美しい歌声(しらべ)が、悲しげな旋律を奏でた。
「・・・オーケアニテス・・・」
渋い声の初老が呟いた。その言葉はさざ波のように静かに、しかし確実に広まっていく。 「まさか、生きてこの目で見られるたぁー」 「ありがたや、ありがたや」 最初の衝撃が去ると、今度は崇める言葉が飛び交い始める。 「ね、オーケ・・・何とかって?」 「オーケアニテス。大洋の娘だ。水の神の使いだけんど、まあ俺達船乗りにゃあ神様同然っちゅーこっちゃな」
水の神の使い・・・じゃあ、ディグニさんと関係があるのかな?・・・それにしても――
オーケアニテスが高く鳴いて高波を起こした。途端に、首筋を刺されるような痛みが襲う。 まさか・・・と思った。けれども、そんな事はありえない。そもそも、どうしてわたしなのか。 「・・・・・・・・・」 「きれいね。でも、どうしてあんなに暴れているのかしら。・・・セリナ?」 何となく、今ならナギの疑問に答えれそうだった。けど、まだ確証はない。
「ねえ、」
『――い!』
誰に向けるでもなく、ポツリと言った。それほど大きな声は出さなかったが、周りの音は波だけになった。 「この中で一番目がいい人、誰?」
『――て』
ざわめきが波と重なった。その内、一人の遠見師が推された。わたしは彼に、“オーケアニテスの首の辺りを見てくれ”と頼んだ。 「・・・あー、なんだぁ?鱗(うろこ)の間になんか光っとるぞー?ありゃぁー・・・モリ、かぁ?」 「痛そう?」 「そりゃー痛ぇーだろ!そーとー深くまで刺さってんぞー」 そうだ。遺体に決まってる。わたしが感じているのより、はるかに痛いはずだ。
『――けて!』
高く澄んだ声が聞こえる。痛みと共に、頭にガンガン響いてくる。段々と、より鮮明に。
『助けて!!』
「ガドガ、あの子助けよう」 「な、ななーにを言っとるけー。あんなに暴れとるのに、近付いちゃー」
『イタい・・・』
「お願い!あの子、すごく苦しんでるの。このままじゃ――」
『“後生の横暴者”め!』
「このままじゃあの子、一生人間を恨み続ける」
『なにも、何も悪い事なんかしてないのに・・・』
「け、けどなぁ嬢ちゃん・・・」 「じゃあ――」
『どうしてこんな・・・』
「わたし一人で行く。だから、舟貸して?」
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