【別れ話をしよう】
地球という世界の中の、日本という東京の中の、ある暗いBar。 木製のBarのドアを開くと一気に煙草の臭いと、酒臭い臭いが流れ込んでくる。 バーテンダーが独り言のように「いらっしゃいませ」と言ったのが微か耳に聞こえてきた。 バーテンダーは上は白い服に身を包み下は黒いズボンをはいていて、黒い布を腰に巻いている。 男の人は首に蝶ネクタイが付いていた。 キャンドルがあるせいか、怪しい雰囲気を出しつつあるこの店。 なんとなく入ったこのBarは、どうもバーボンらしい。
「今日はどうしたの晴一」 「なんとなく…こんな所もたまにはええかのぉ思って」
テーブルを挟んでの向こう側の君が、キャンドルの炎で淡い色に包まれている。 自分勝手だと思うけど、できればわしは君の泣き顔なんて見たくない。 この店を選んで正解だったと心の中で思った。
「晴一!何頼む?」 「んー何でもええよ」 「…あたしこういう所あんまりきた事ないんだから晴一が選んでよー…」
恥ずかしいのかテーブルから身を乗り出し、周りに聞こえないようにわしの耳の近くで囁いた。
「わかったよ」
わしは表面上笑いながら、左端に置いてあったお洒落なメニューらしきものをとり、 その中から適当なものを選んで頼んだ。
―キモチガユラグ―
君の瞳を見ないよう、壁にかかっている時計を見ているふりをして君の瞳から目を反らす。 もう君は気付いとるじゃろか。わしが今日別れ話をした事に。
「…なぁ」
二人の間に短い沈黙が流れる。 昔はこんな事一度もなかったのにね。どうしてこうなっちゃったんじゃろね、わしら。
「あ、あのさっ、」
君は暗い話題だとわかると話を反らす。 でもそれだけ言うと、君は黙って唇を噛み締めた。 君は泣きそうになるといつもそうやって我慢していたね。
「…わし、お前が好きじゃ」 「あたしもよ」
君は直ぐさま、わしの瞳を見ながら答えた。
「でも、わしほどじゃない」
そう…わしほど君はわしを愛しとらん。 このまま一緒におっても、二人ともからっぽになるだけじゃ。
「…どういう意味?」
我慢していた顔も、泣きそうな顔になる。淡い色の向こうでもそれはなんとなく感じとれた。
「いつかわかるよ」
そう言い、わしは胸ポケットを探った。 煙草を1本取り出し、火をつけてから薄暗い天井を見つめた。 この煙草を消したら席を立とう。君とさよならしよう。
バーテンダーとふと目が合った。わしのグラスに視線が注がれる。 わしは少し迷い「同じのを」と答えた。 本当だったらもう出て行くつもりだったんじゃけど、ごめん。もう少しだけわしのわがままきいてよ。 この氷が溶けるまで…あともう少しだけ、わしと恋人でいようよ。
―モウヒトトキ―
自分の感情に押し流されないよう、気持ちを抑えながら。 この店にいるまで、わしと君は恋人。 店を出たら君はもう遠い人。 …わしは自分勝手じゃ。君を拒否して微笑みさえも消して。 ごめん。でも、君も恋に堕ちたらわかるはず。
いつか君はわしの知らない誰かと恋に堕ちるじゃろう。 君の幸せを願うのは嘘じゃない。 わしが愛した君のその優しい唇も、肩まである髪の毛も、乳房さえも、 わしの知らない誰かが自分のものにする。 考えただけで嫉妬するわし。 君を忘れるにはまだ時間がいるかも知れん。少しずつ忘れていくよ。
…グラスの中の氷が溶けた。
わしは静かに席をたった。
「はるいちっ…!!」
泣きながらわしを見つめるその瞳。 見つめ返したら、わしはもう一度君の瞳に捕らわれる。 もう一度君の虜になってしまう。
―ココデオワカレ―
わしは見えないように、にっこり君に微笑んでお金を払ってから店を出た。 君の声が微かわしの耳に届く。振り返ってはいけない。 そう、自分をコントロールする。 君が愛するという事を知ったときには、もう君の隣にはわしじゃない誰かがいるじゃろう。 それに、また巡り会うには東京は広すぎるよ。 こんな東京で巡り会ったわしらも凄いんじゃろうけど、しょうがないよ。 君がわしを愛していなかった。 さっきまで愛した人。今はもう遠い人。
じゃあ さよなら。
ネオン街の光が様々な色に変わりいくのをただじっと見つめながら、 帰りのタクシーの中で、ケータイから君を消した。 わしの頬に、さっきまで我慢していた涙が流れていった。
〈終〉
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