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邂逅〜ガスと炎のホロコースト〜 作者:今井明菜

最終回   血の時代

ホロコースト:ギリシャ語で「すべてを焼き尽くす」という意味を持ち、もともとは人       や家畜などの火災による大量死を言う。



今年73歳を迎える私は、今こうして病院の暖かなベットの上に横たわっている。
少年だったあの頃の私は、自分にこのような日々が訪れるとは、まったく予想だにしなかった。
ただ自分を待ち受けるのは、孤独、絶望、不安、・・そして絶え間ない死への恐怖。
毎日がその連続だった。
今でも目をつぶれば鮮明に浮かぶあのおぞましい光景。
だけど決して、忘れてはならない過去。
穏やかに死を迎えようといる今、もう一度すべてのことを心に刻もう。
人類が決して忘れてはならない、血色に染まったあの冷たい時代を。




ユダヤ人に対する迫害は、ナチスドイツに始まったことではない。
それはヨーロッパ内では二千年もの長い歴史をもつ差別であった。
この差別を「民族浄化」と称して完全な絶滅までをたくらんだのが、ヒトラー率いるナチなのであった。
今にして思えば、すべての始まりは1938年。
パリ市内で、駐在外交官がユダヤ人少年により殺害されたことがきっかけであった。
これに対し、ナチスの幹部ゲッベウスの命令でユダヤ人の教会に火を放ち、ユダヤ人商店のガラスのショウィンドウを打ち壊すなどの暴行が行われた。
のちに「水晶の夜」と呼ばれる事件である。
しかしこの時点ではまだ、ヒトラー率いる親衛隊はこれには関与してなかった。
この時誰が、後に行われる恐ろしい大虐殺を予感しただろうか。


少なくとも当時7歳だった私は、自分にそんな未来が待っていようとは思いもしなかった。
両替商を営み裕福だった家庭に育った私は、自分の未来は光り輝くものだと信じて疑わなかったのです。
その幸せに迫るナチの足音を、どうしてあの頃の私が気付けたというのでしょう。



当時のドイツは第一次世界大戦による莫大な賠償金をかかえ、経済状況はどん底にまで堕ちていた。
しかしユダヤ人は20世紀に入り国際ユダヤ主義の高揚と共に目覚しい社会進出を遂げ、豊かな財力に恵まれていたのである。
働いても働いても金をむしりとられていく状態だった国民は、いつしか「自分たちの景気がうまくいかないのはユダヤのせい」などという人種的偏見を唱え始めたのである。
ナチスドイツはこれを利用し、「ドイツ民族の発展を阻害する最大の要因はユダヤ人」とした。
こうしてドイツ帝国内で、『ユダヤ人』という概念が確定されたのである。



まず初めに開始されたのが、ユダヤ人の財産収容でした。
私の家にも容赦なくその手はのび、子供だった私にはその時のナチの姿が、まるで悪魔のように見えていたのです。
私にはラウルという名の友達がいました。
親友だったのです。
ラウルの母親は若くして病死しており、彼は父親と二人で暮らしていました。
その父親は頑固で融通の利かない男だったため、周りの大人たちからは煙たがれていましたが、私にとってはその大きな体と自信に溢れた表情は、何やら憧れを感じさせるものがありました。
しかしそういう性格の男ですから、ナチの横暴な行いに黙っているはずもなく、財産収容のために家を訪れたナチと小競り合いが続き、そうするうちに一人の顔を殴りつけたのです。
その瞬間、ラウルの父親は肉の塊と化しました。
父親が銃で撃ちぬかれる瞬間を目の当たりにしたラウルは、半狂の状態となり、そのまま家の窓から飛び降りたのです。
ラウルの小さな体は地に叩きつけられ、そうして私は親友を失いました。




私がアウシュビッツ収容所に送られたのは、1941年、私が10歳の時でした。
私の家族も共に収容されたのですが、ナチの命令で子供のみが集められ、すぐに離れ離れになってしまったのです。
まだ親の愛に飢えている年齢の子供が、愛する父母と引き離され、その時の不安は言葉には言い表せないものでした。
その年にはすでに、ヒトラーからアウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ヘスに対し、ユダヤ人絶滅についての命令が下っていました。
もちろん当時の私にはそのことを知る術はありませんでしたが、シャワー室と称して入れられた狭い空間の中から二度と人が戻ってくることがない理由を、私はいつのまにか理解していました。
対した労働力にもならない私のような子供がどうしてそんな状況下で生き延びていられたかと言うと、私は自分でも誇れるほど、歌がうまく歌えたからなのです。
声変わりもしていない年齢の私の歌は、ナチの間で「天使の歌声」と評判になり、殺したいほど憎んでいたナチの前で歌うことを代償として私は、命を存続することができたのです。
でもあの時の私は、心の奥底では自分の死を願っていたのかもしれません。
ユダヤ人をガス室で殺し、焼却炉で焼いていくという光景を毎日のように目にし、いつのまにか死体にもなれてきている自分を、私はひどく恐れました。
その中にもしかしたら、・・・いや、きっと私の両親もいたのでしょう。
私は二度と、母にも父にも再会することができなかったのですから。
それを心のどこかで分かっていても、それでもわずかな希望を棄てることはできなかったのです。
私はその絶望に満たされたその空間で、一人の少女に出会いました。
その少女は暗闇に閉ざされたその世界を、光で照らすかのように輝いて見えました。
それほど美しい容貌を持っていたのです。
深海の海の色をそのまま写し取ったような青い瞳に、絹糸のような美しい金髪。
少女が私と同じく生かされていたのは、その美しい容姿のせいだったと思います。
彼女は当時12歳でした。
私は彼女と過ごす間は、少なくても幸せを感じていました。
まるで天使のように微笑む彼女の前では、私は忘れていた笑顔を取り戻すことができたのです。
しかし、その時間は長くは続きませんでした。
彼女はナチに陵辱を受けていたのです。
いつしか彼女の姿は見えなくなり、ナチの口から彼女が自害をした、と聞きました。
彼女は苦痛の生よりも、安息の死を選んだのです。
もしも彼女が違う時代に生まれていたら、それこそ未来は輝くものであったでしょう。
美しく優しい天使のような少女が、12などという若さで自ら命を絶つことなど決してなかったでしょう。
それを思ったとき私は、それまで凍り付いてたかのような感情が溢れ出し、アウシュビッツの渇いた土を涙で濡らしました.



ヨーロッパでの第二次世界大戦は、1945年6月、ドイツの降伏により終わりを告げました。
それで人々が平和を取り戻したというわけではありませんが、少なくとも町を破壊する爆撃の音は止んだのです。
そうして私のいたアウシュビッツにも連合軍が入り、苦痛に耐え、わずかに生き残った人々はようやく解放されました。
私は14歳になっていて、四年ぶりに吸う外の空気に、振るいつきたくなるほどの感動を覚えました。
私は解放された人々の中に父母の姿を探したものの、結局見つけることはできませんでした。
収拾がつかず、そのまま放置された山のような死体の中に、おそらくその姿はあったのでしょう。
連合軍の兵士たちは、私には見慣れてしまったその光景に、しばらく混乱を抑えることはできないようでした。
しかしそれをそのままにいておくわけにも行かず、連合軍は積まれた死体をブルドーザーでごみのように巨大な穴に詰め込んだのです。
その処置に異論を訴えるものたちはもちろんおりましたが、結局そうするほかに術はなかったのです。
そのことが、ナチにより殺害された人々の多さを物語っています。



あれから59年たった今、戦争はなくなってはいない。
人類がつくりあげた近代がしでかした恐ろしい出来事を、人々は忘れかけているのではないのではないか?
私が今1つ悔やむことと言えば、その事態を後世に伝えゆく家族を遺せなかった事。
あの血に彩られた時代を経験した人々がいなくなってきている今、どうか人々が再びその時のことを再認識し、決して繰り返してはならないということをしっかりと心に刻んでほしい。
命が終わりを告げようとしている今、私が望むのはそれだけである。

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Novel Editor