「おい。」 短く呼ぶ声に、愁の足はとまった。 昇降口の横には、凛の姿がある。 同じ美羽の幼なじみといっても、二人が話したことはほとんどない。 おそらく幼いうちから二人は、互いに対する嫉妬の心を持っていたのかもしれない。 その相手からいきなり呼び止められたのは、日が傾き、空も大地も赤く染まった時間であった。 「・・・あんたと美羽のこと、昨日聞いたんだ。」 その言葉に愁は一瞬反応を示した。 しかしその表情は変わらない。 「なんであんたそんなふうに平然としてられんだよ?美羽は昨日も今日も学校を休んだままなんだぞ!」 「・・・・平然となんかしてない。」 愁の口が開いた。 「・・・・頭の中はいろんな感情でめちゃくちゃだよ。それでも誰を憎むこともできずに、平然をよそおってでもいなくちゃ、どうにもならないんだ。」 「・・・・。」 凛は自分の言った言葉に、はっとした。 愁の見せる心の内に、自分が無神経なことを言ってしまったことをひどく恥じた。 「・・・・・こんなの・・・、ないだろ・・・・?」 感情を抑えるように手を顔にあてながら、凛はそう呟いた。 「美羽は・・・・、本当にあんたのことが、好きだったんだ・・・。」 「・・・・。」 「あいつには・・・・、ずっとあんたしか見えてなかったんだよ・・・・。今更、・・・兄弟なんて・・・。」 いつか、音楽室の前の廊下で聞いた美羽の思い。 自分を忘れたことがないといって泣いた、あの時の美羽の言葉が真実であることを思い知らされた。 そのことが、愁の頭にあった1つの考えを、確かなものにしたのかもしれない。 「・・・・・俺は、ドイツに行く。」 突然言った。 「・・・え?」 「俺は事故で指を痛めて夢だったピアニストをあきらめなきゃいけなくなった。だけど、ドイツに優秀な神経外科の医師がいて、そこで手術を行えばもしかしたら元通りになるかもしれないらしい。もし成功したらそのまま海外でピアノを続けたいと思う。」 「・・・・日本に・・、戻らない気か・・・・・?」 愁は答えるのを少しためらったようだった。 「・・・・美羽のためにも、それが一番いい。」 「ふざけんなよ!!」 その答えを受けて、凛の大声が空気を揺らした。 「あいつはこの九年間あんただけを思ってきたんだ!!時間と距離なんかあいつには関係ないんだよ!!お前は全然美羽のことを分かってない!!あいつには・・・・・、・・・あんたしかいないんだ・・・。」 「・・・・お前がいれば、美羽は大丈夫だ。」 愁の表情は、穏やかだった。 「・・・な、に言ってんだよ・・・・。この九年間、美羽は俺のことなんか・・・。」 「美羽のことならちゃんと分かってる。・・・・血のつながった・・・、兄弟だからな。」 その言葉には、愁のせつなさを含んでいた。 それに気付いた凛は、何も言うことができなかった。
あれから一週間。 私は学校を休み続けたままだった。 ただただベットの中に蹲って、時の経つ感覚さえ忘れている。 夜のとばりが降りるのも、朝の訪れも。 何もかもがいつもと同じようにすぎていく。 ただ私だけがこうして・・・・。 愁ちゃんは学校に行っているんだろうか? 一体、今なにを考えているのか。 そんなことばかりが頭をよぎって。 それが余計に、・・・私を辛くさせた。 「・・・・・?」 その時、急に窓ガラスに何かがあたるような音がした。 時計を見ると午前二時を回っている。 私はカーテンを開けて、窓の下を覗いた。 「・・・・愁ちゃん!」 そこには愁ちゃんが一人立っている。 冬の澄んだ空気に導かれるように、星月の光が夜の暗闇にその姿をありありと映し出した。 私はあまりの驚きで、一瞬息をすることも忘れた。 愁ちゃんと会っていなかった一週間。 九年に比べたら全然なんてことない時間なのに、やけに懐かしさのようなものを感じた。 私は急いで、・・だけどお母さんたちに気付かれないようにゆっくりと、階段をおりて外にでた。 「・・・・愁ちゃん・・・。」 その間にも、私の目には涙が溢れた。 “兄弟”として、会う愁ちゃん。 私の目に映るその人は、まちがいなく大好きだった幼なじみの愁ちゃんなのに・・・。 「愁ちゃん・・・。どうして・・・。」 「お前と、まだ何も話してないから・・・。」 「話・・・?」 愁ちゃんは私に少し歩み寄った。 「・・・俺たちさ、ちゃんと兄弟になろう。」 愁ちゃんがはっきりとした声で言った。 当然ともいえるその答えに、私は頭をなぐられたような衝撃を感じた。 愁ちゃんは・・・、もうそんなふうに考えてたんだ・・・。 その答えはあたりまえのこと。 私たちが兄弟であるという事実に、それ以外の答えなんかあるわけない。 だけど・・・・・。 こんなにも長い間の想いを・・・、そんな簡単に忘れられるわけないよ・・・。 私はずっと・・・ずっと愁ちゃんが好きだったんだよ? それが実は兄弟だから、“兄弟になろう”って何? 愁ちゃんはそんな簡単に割り切れるものなの? それは、愁ちゃんが私のことをなんとも想っていなかったからなの? 「母さん達さ、きっとずっとつらかったと思う。今まで黙ったいたのもさ、俺たちのことを想ってのことだったろうし、俺たちが何にも知らない間も、きっと苦しんでいたと思う。それをさ、今まで愛情に甘えてきた俺たちがせめることはできないだろ。」 愁ちゃんとのたった二歳の年の差が、やけに遠いものに思えた。 愁ちゃんは昔から、ほんの子供のころからも大人びた意見を言って大人たちを驚かせた。 そういう愁ちゃんが、私はずっと大好きだった。 だけど今はそれが、私の心を重くさせる。 愁ちゃんの言葉は本当に正しいことだから、私は何も言えない。 そんなふうに淡々と話されたら、私どうしていいか分からないよ・・・。 「俺・・・、明日ドイツに行く。」 「・・・え?」 何かの、聞き間違いかとも思った。 だけど愁ちゃんの続く言葉がそれが確かであることを気付かせた。 「むこうで治療をうければ、もしかしたら指が治るかもしれないんだ。また・・、ピアノが弾けるようになるかもしれない。」 「愁ちゃ・・・。ほんと・・?本当に!?」 私の心を光が照らした。 だけどその光はほんの一瞬。 再び影となるのに時間は必要なかった。 「リハビリを受けて、指が回復したら・・・・、むこうで本格的にピアノのレッスンをうけようと思ってる。日本には、・・・・帰らない。」 『日本には帰らない』 「・・・・う、そ・・・?」 そんなの嫌だと・・・、愁ちゃんにまた会えなくるのは嫌だと叫びたくなったけど、その声を私の中の何かが止めた。 もう、お互い会わないのが一番なのかもしれない。 だってそうでなくちゃいつまでも忘れられない。 でも、離れているだけでいつかは忘れられる? この九年間の想いが、その考えを否定する。 愁ちゃんのことを忘れることなんて・・・、できるの? 「・・・・・。」 黙ったままでいる私に、愁ちゃんは急に言った。 「・・・・なぁ、俺さ。俺たちは兄弟って聞いてさ。ずっと美羽を好きだと思っていたのは間違いで、無意識に妹を慕う気持ちがでてたんじゃないかって考えたりしたんだ。」 心臓を、握りつぶされた気がした。 愁ちゃんは、そんなふうに思ってたの? 見上げた愁ちゃんの目が、優しげに笑った。 これは・・・、昔とちっとも変わらない愁ちゃんの笑顔だ。 「だけどさ。やっぱり違うなって、思った。九年前お前と別れた時あんなに寂しかったのも、美羽から手紙が来なくてあんなに悲しかったのも、・・・お前が俺を思ってくれてたって知ってあんなにうれしかったのも・・・・・、お前に対する感情全部が、俺が美羽を愛してた、っていう証明なんだって、あらためて感じた。」 「・・・・・。」 「う、・・・そ・・・・。 愁ちゃん・・・、今、なんて・・・・? 私のこと・・・。 胸が、たまらなく熱くなって・・・・、足に力が入らない。 そうだね・・。 こんな気持ち。 今まであなただけにしか感じたことのない。 誰よりも誰よりも・・・・、愁ちゃんだけを愛してた・・・。 これが、その証明なんだね。
「だからさ、今すぐにお互いを兄弟だと思うのは無理だよ。でも、きっといつかそう思えるときが来る。楽しかったことも辛かったこともいつか思い出になって、穏やかな心でお互いの顔を見ることができるときがくると思う。その時、俺はきっと日本に戻ってくるよ。」 穏やかな心でお互いを・・・・。 愁ちゃんの言葉が・・・、ゆっくりと心に沁みる。 今は涙しかない出ないけど、いつか笑顔で愁ちゃんを見ることができたなら。 その時はきっと、愁ちゃんを好きになれたことを誇りに思える。 私のお兄ちゃんはこんなに立派でこんなにすてきな人だって・・・・、言えるときがくるのかな。 ・・・・大丈夫だね。 いつかそんな日きっとがくる。 思い出を・・・、超えられる時が・・・。 「そう・・・だね。」 九年ぶりに、愁ちゃんの前で見せる笑顔。 この時、やっと新しい一歩を踏み出せた。 私はこの時、たしかにそう感じたの。
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