作品名:吉野彷徨(U)若き妃の章
作者:ゲン ヒデ
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 子供らが、枯れた葉っぱを紙代わりに、字を書いている。手本は、千字文である。
「書き順は、こうよ。さっきの先生の教え、聞いていなかったの」
(始制文字)の(始)の女偏、くノ一の順を、高市(たけち)皇子に、讃良は教えている。みな男の子たちだけである。男女は別である。
 一人一人の書いたのを見回っていると、鎌足が入ってくる。
「おお、姫さま、ここに居られましたか、やれやれ。この度の伊勢への旅の日程が出来ました。早い目にせよとの、陛下のお命じに準備を慌てまして……。十日後の御出立となります。神宮参拝の後、大海人の皇子は尾張へ、姫さまはお帰りと、別れ別れになりますが……。行く筋々の者らに、十分なお世話をするように手配もしました」
 鎌足の報告を聞きつつ、子供らの飽きた風の習字を見て、
「鎌足、この子たちにも分かる、為になる話をしてくれない。お前、学があるでしょ」
 しばし、鎌足は考え込み、ちらっと讃良を見けから、子らに話し出す、
「わ子さま方、唐の国の大昔、諸国に分かれている春秋時代という頃がありまして。孫武という、えらい兵法家がおりまして『孫子』という兵法書を著しました。それを読んだ呉の国のリョコウという王が、孫武を自国に招き、『わしの妻たちに軍の訓練を付けよ』と命じましてなあ」
 訓練に身が入らぬ愛妾らの指揮役の女性を、孫武が切り捨てる段で、鎌足は手で、横の讃良を切る仕草をする。乗った讃良は、ぎゃっと切られた演技をし、子供らは笑い声を上げる。
「で、妻たちは、整然と訓練をこなしだし、孫武は王に言いました『この方達は、命令があれば、あなたさまのため、命を投げ出してでも戦場で戦うでしょう』……」
 鎌足が話を終え、帰ろうとすると、讃良は子らに向かい、手を叩き、
「さあ、みんな、背筋を伸ばして! 内大臣さまに、『ありがとうございます』と頭を下げ、お礼を言うのよ。ハイ!」
 讃良の合図で、子らは一斉に礼を言う。
 一瞬驚いた鎌足は、笑顔になり
「姫さま、あなたさまを指揮官にしたら、孫武は、逃げて帰りますなあ、はは。……これからも暇を見つけたら、話に来ましょう」
 時々、鎌足はここを訪れ、歴史上の事柄を話した。
 横で、讃良は感心しながら聞いていた。学んでいるというのではなく、後の世の人が講談を聞いている感覚であった。この耳学問が、後の壬申の乱に役立つとは、讃良は思いもしなかった。
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