作品名:平安遥か(T)万葉の人々
作者:ゲン ヒデ
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            志貴皇子
やがて朝が来る。朝餉が終わっての、出発の前のひととき、家持は、巻物に何か書きかけて、考え込んでいる。
 几帳の中に入った山部は、そっと字を見る。
「困りますよ、家持さま、『緯、山部王の時、初めて詠う』など、本当に書いて」
「いやなあ、君の和歌だが、うーん、へたはへただが、何というか、不思議な感じだ、まるで王者の風格が、ひょとしたら、ひょとかも」
「また私が帝にですか、それにしても誉められているのか、貶されているのか、まいるなあ」
「この人の世、何が起こるかは、誰にもわからぬ。だが娘は未来をかいま見れるかも。それを避けるとどうなるのかな…ああ考えるのはよそう。むすめの予感にとらわれず、君は自分の力で未来を切り開けば、ひょっとしたら、帝まで登りつめるかもな」
「帝ねえ、でもなったら、この難しい世の中を、どのようにしてよくしていけばいいんでしょうかね、途方にくれる話ですね」
「偉い、そう考えるだけでも帝の資格がある。で夜這いしたの」
「していませんよ」
「残念、外戚になりそこねた。あはは。帝の話はともかく、私はたくましい君を婿に欲しかったから、泊まってもらったんだが、娘の方がいやでは、しかたがない」 
「やはり、そんな目的でしたか」
 
 続けて談話する。
 山部は昨日の話の疑問を言う。 
「弾正台の役人と惠美押勝様が、和歌を聞いて感動したとの話ですが、人はそんなことに、感動して泣きますか」
「うーん、聞いたことがある和歌では、だめだろう。そうだなあ」
しばらく、考え込み、ちょと待ってくれ、といって出ていく。
だいぶ経ったころ、足音が戻ってくる。例の歌集の巻物、数巻を持ってきた。
 
 山部の前に、ゆっくりとある箇所を広げて、横に座り、指先を文字になぞって朗々と唱う
   『志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首』
 志貴の皇子と聞くと、驚きが走った
( 石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨)
『石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも』(万8-1418)

 若き貴公子の、水辺で遊んでいる情景が、脳裏に浮かんだ。
 不思議である。はっきりと顔がわかる。父に似ている。
 こちらに笑顔を見せた。会ったはずもないのに、得もいえぬ懐かしい思いになる。なんと、やさしげな瞳だろう、山部は幻の世界に浸っていた。
 もう1度、家持が唱う。おもわず嗚咽し涙を流す。

 やさしく、家持は
「おじいさまに、会えましたかな」
「は、はい」
「すばらしい和歌でしょう。あなたのおじいさまは、壬申の乱により、冷や飯食いの皇族になられたが、さわやかな心で、歌詠みの世界に生きられた。和歌には、人の思いが宿っているでしょう 。で他にも詠われておられるが、聞かれますか」
「はい、ぜひ、…あ、涙で字がにじんで…」
「かまいませんよ」

           神前起請文
 ちょうど、志貴の皇子の歌を全て教えられた時、娘が紙と木札を持って入ってきた。
「お父様、山部様に書いていただきたい物がありますので、どうかご遠慮して」
「ああいいよ、馬の手入れをしてこよう」父は出ていく。
 改まった姿の娘の表情は、寂しげであった。
「山部様、あなた様の皇祖さまが、私の枕元に立たれまして、この様な文面で起請文を書いて貰えと」
 丁度、父が書き物をしていた机に、紙と木札を載せる。
 机に寄った山部、木札を取り上げ読む。
(えーと、初めて大伴宿禰家持の女子に逢しとき、我山部は心引かれれど、この女子、予知の力あり、されど予言や占いに頼って、まつりごとをせず、困難に全身全霊で当たって時代を切り開くのがわれ山部の天命と悟れり、それ故この子女と2度と会わないし、召し出そうとすれば、皇祖の天罰を受けまする、かく皇祖に誓い奉る)
 読んで目を丸くする。
「なんですかこの文章は、まるで私が天皇に…」
 見れば、娘は俯いて涙を流している。
 言葉を失って、考え込む。やがて筆をとって、紙にその文章を写しだす。
 書き終わると、手形も押して欲しいと、娘が言う。
 手に墨を塗り、紙の余白に押そうとすると、見えぬ力が手に押し掛かり、厳かな女性の声が聞こえる。
「誓いなされ。誓いなされ。予言や占いでまつりごとはせぬことを!」
 押し終わった後、不思議そうに周囲を見るが何事もない。
 紙を受け取った、娘は大事そうに持っていく。

 やがて旅立ちのときがきた。3人の家族に送られる。
 山部は2、3日だが、家持にとっては二十数日間の旅の始まりである。

             大仏殿前
 同行する部下と、大内裏前の朱雀門で落ち合うので、そこへの道、二条大路をめざして南へ下る3人の騎乗者に、朝日が眩しく当たる。
家来の阿須奈麻呂が前で、山部と家持は並ぶ。
 左の巨大な大仏殿を顎で指して、家持は言う。
「君はどう思う、あの盧舎那仏を。鎮護国家のために建立する、と先帝が言われたが、どうもおかしい。まさかと思うが、長屋王の怨霊から、自分が逃れるためにこのばかでかい仏を作らせていたかも。そうだとすれば、国費を浪費し、森の木々が大量に切られ、土地が荒廃し、また飢饉が多い原因が、帝の気儘から起こっていることになる。 建立に心血を注いだ、市原王にはわるいが、いったいあれに、どんな功徳があるのか」嘆息する。
 山部は声も出せない。
 まさか、まもなく、自分の妻子が、それによる土砂崩れの災害で亡くなるとも気づかない。

 馬は南へ下る。二条大路が見えてきた

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