作品名:闇へ
作者:谷川 裕
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 ルームミラーからはロータリーエンジンの姿は確認出来なかった。幹線道路を何回か反れる形で裏道に飛び込んでいた。時間と距離を浪費するがコーナーを何度かパスしその度に距離を空けたのだった。Y駅の最終便、まだ間に合う時間だった。南は助手席の直美をそこまで送り届ければこの<仕事>は片が付く。非公式な仕事、長野はそう言った。下の街に下りて普通に暮らせるようになる。心から必要とする見返りでは無かった。それでも乗っていた。何かを期待していたのかもしれない。痺れるような何かを。昔失った何か、そして実は今も失っていないそれ。はっきりとした言葉にはならない。直美にもそれがあるのか? 誇り。それほど分かり易い物とも少し違う。

「疑惑を晴らす事ができるとその男は言ったの」

 直美は後ろを振り返り後続の車がいるかどうか確認してからそう言った。ドーピング疑惑。今更汚名が晴れてどうなるというのか。

「もうオリンピックは……」

「そう、無理よ。選手としてのピークを過ぎている」

 車はトンネルを抜けた。見えるのは闇だけだった。車内に差し込む外灯の弱い光。直美は車に乗り込んだ時と比べると別人のように血色が良くなっていた。薄っすらと化粧をしている事に今更ながら南は気付いた。ファンデーションの影に隠れて肌の疲れがわずかに見え隠れする。三十代前半に見えた。いくらか南よりも若いくらいだろう。

「あの男は何者?」

「さあね、ひょっとしたら俺達の人生なんてちっぽけな物なのかも。何者かが一部の都合で良い様に操作している。上手いのは操られているって事に中々気付かせないって事なのかもな。だけど――」

「私達は気付き始めた」

「気付かされたと言うべきかな。それなりの代償を払う事で」

「教えて、私が殺したあの男は何者なの?」

「そいつは俺にも分からない。直美さん、あんたが引き金を引く事で得する連中がいるって事だよ。大掛かりな利益が絡んでいる。国益って言っても良いんじゃないかな。断定は出来ないが。<捨て駒>たぶん、俺達はその程度でしかない」

「大変な事をしてしまった…… 今更だけどね。ねえ、私逃げ切れるかしら? 駅で何が待っているの?」

「Y駅の最終便が待ってる。それだけは言える。俺の役目はそこまで送り届ける事だ。それと、逃げ切れるかどうかだが怪しくなってきたな」

 直美が振り返る。後方からヘッドライトを上向きにした車が猛スピードで距離を詰めてくるのが見えた。携帯電話、小さな呼び出し音が鳴っていた。助手席の直美、尻の下だった。

「出てくれ」

 言って南はシフトを三速まで落とした。シートに上体が押し付けられるほどの加速感を得ながらアクセルペダルを一気に踏み込んでいた。

「南さん、あなたによ」

 直美が電話を渡してくる。スピーカーホンにするよう南が言った。

「運転中に携帯使うと警察につかまるぞ」

 スピーカーホン越しに長野の笑い声が聞こえた。南は四速にシフトを叩き込んでいた。徐々にではあるが距離が詰まっていた。Y駅まではこの道一本で行けた。交通量はかなり少なくなっていた。飛ばせばかなりの時間的余裕は出来る、しかし後続のロータリーエンジンと一緒にゴールとはいかないだろう。

「ルートを外れているな」

「Y駅の最終便に直美を乗せりゃ良いんだろ? 道は自分で決めるさ。それより今取り込み中だ」

「自己紹介はもう済んだという訳ですね」

 南は他人事のような長野の物言いに多少の苛立ちを感じた。が、それは流れる景色よりも早く南の頭から消えてなくなっていた。Y駅までのルート検索。考えていた。一度この道を外れる。林道があった。最悪の場合でも車を捨てて林道と併走する線路を走れば駅までは行き着ける。

「言いたい事はたくさんあるが、今は後ろの車を振り切る事だけを考えたい」

「ほう、やはり付いて来ましたか。ダッシュボードを開けて欲しいのですが」

 片手で携帯を持ちながら直美がダッシュボードを開けた。無造作に置かれたそれ。S社のスポーツセダン。黒が基調のシンプルなデザインだった。その中でもそれは黒く鈍く輝いていた。手を出そうとする直美に南は軽く首を横に振る事で制した。

「いずれにしても南さん、あなたの指紋は付いてますよ」

 狭くなる視界の中でルームミラーをちらりと見ながら南は舌打ちをした。道を外すぞ。直美に言ったつもりだった。携帯の向こうでまた長野が軽く笑っていた。南は一瞬ヘッドライトをオフにし車を闇と同化させた。漆黒のボディが闇に吸い込まれる。闇の中、車は二百キロのスピードで方向を九十度変えた。ブレーキを踏まずサイドだけを急激に引く。尻を振り横に流れ出す。カウンターを当て車は一本向こうの道に通じる細道に入る。思いのほか尻が流れ過ぎていた。完全に車体を横に振ることが出来ず助手席から道路脇のフェンスにぶつかっていく。南は奥歯を噛み、一度だけポンと合わせるようにブレーキを踏んだ。闇の中でテールランプがいつまでも尾を引いていた。
 振り返る。横道に入りヘッドライトを点灯させた。ブレーキ音を遠くに聞きながらもロータリーエンジンはまだ尾を引いている南のテールランプを執拗に追いかけてきた。

「俺はただ走らせるだけだ。他に能が無い」

「助手席の彼女に頼めば良い事ですよ。一発必中。振り切れなかったら使うべきでしょう」

 南は直美を横目で見た。二度、引き金を引かせたくなかった。

「良く分かったよ」

 南はそう言って片手で携帯を直美からもぎ取った。後部座席に放り込んだ。
 林道への入り口。冬季閉鎖中とあった。遮断機、加速して粉微塵に吹き飛ばした。

「駅から反れるわ」

「駅とは交わらない。線路が併走してるんだ。車で振り切れなければ車を捨てる。後ろの誰かさんを何とかしてから線路沿いに走れば最終便には間に合う。そいつは俺が貰うよ。どの道俺の指紋べったりなんだろうな」

 直美がハンカチでそれをつかんだ。南はひんやりとしたグリップをおもむろにつかみ、革のブルゾンの内ポケットに突っ込んだ。見た目よりもずっしりと重く、硬質な感触がいつまでも掌に残っていた。

「イタリア製よ」

 イタリア製の有名な銃器メーカー。そう言いたかったのか。今の南には銃のメーカーを確認する余裕は無かった。

「揺れるからな。ちょっとつかまっててくれ」

 言って南はもう一度ヘッドライトをオフにしノーブレーキングで小砂利を巻き上げながら林道横の採石場に方向を変えた。山盛りになった砂利。その横にピタリと車を横付けさせた。エンジンは掛けたまま、左手でシフトノブを軽く弾いた。右手はステアリングから離していた。胸に仕舞われた銃器。もう一度所在を確認した。存在感のあるそれは南の体温を受け生暖かくなっていた。
 近づくエンジン音。林道からは直接姿は見えないはずだった。通り過ぎるロータリーサウンド。南はシフトノブから手を離さなかった。一度停止するロータリーサウンド。南の位置からも見えていない。水平対向の静かな唸りは砂利を越えて林道まで届くのだろうか? 林道の向こうから獣の咆哮が遠くに聞こえた。野生動物が住んでいるのだろう。闇に紛れて狩をするのか。夜行性動物の鳴き声が途切れ途切れに聞こえてきた。右手でステアリングを軽く握った。皮製、三本スポークのそれが汗をかいた南の掌に吸い付いてくる。長く握っていると掌の一部のような感触になってくる。南がこの車を気に入っている理由の一つだった。要所要所にドライバーとの一体感が得られるのだった。

 ドアが開き、一人。誰かが車から降りる音が聞こえた。しばらく歩いているようだった。シフトを入れこの場から急発進したい欲望を堪えた。同じ事。このままではまたどこかで追いつかれてしまう。最終便を逃してしまう。その先に何があるのか? 分からない。今は最終便までに直美を届けること。それだけ、それだけの事を自分に信じ込ませたかった。
 直美が喉仏を上下させ生唾を飲み込んだ。振り向き視線を合わせた。美人だ。南はそう思った。氷のように冷たい何かが彼女を包んでいた。氷でできた人形。一瞬の危うさのような物を持った女。そう思えた。

 人が歩く音。砂利が脚にまとわり付いている。歩が止まった。採石場への曲がり道。良く見なければ分からないほど小さな道。闇の中で見えるだろうか? 巻き上げた小砂利。路面に残っていた。
 ゆっくりと南はステアリングから掌を離した。懐の銃器。取り出した。<Beretta>銃身に彫られていた。セーフティーレバーを降ろした。そのまま懐に仕舞い込む。ダメよ。子供のように困った表情を直美が見せた。元々は表情が豊かな女なのかもしれない。グリップを握る指先が冷たくなっていた。レース前の緊張とは違う物を南は感じていた。
 足音は同じところを何度も行ったり来たりしていた。闇の中ではこの場所を見つけることは困難なはずだった。足音がロータリーエンジンに向かう。心拍がわずかに低くなる。音を立てないように南はゆっくりと息を吐いた。つられるように直美も息を吐いた。ロータリーエンジンを持つその車は緩やかな坂道の途中で停車したままだった。

集中ドアロックが解除される。ピッという電子音と南が放った携帯電話が鳴り出すのがほぼ同時だった。後部座席のそれが闇の中でけたたましく鳴り響いた。

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