作品名:神社の石
作者:紀美子
← 前の回  ■ 目次


 試合が最後までちゃんと録画されているか確認して、彼は私がいれたコーヒーをほとんど飲まずに帰っていった。私はカップをキッチンに持っていって、中身を流しに捨てた。彼がすこし口をつけたというだけで、そのカップは洗う気がしなかった。私はとりあえずカップを流しに置いて、自分のためにコーヒーをいれなおした。ただよってきた新しいコーヒーの香りだけで、私はすぐにおだやかな気分をとりもどした。私はもうずいぶん前から、彼とのすさんだ関係がそれほど気にならなくなっていた。
そんな無気力さが、彼とのことだけでなく、私の生活のすべてをうすい膜のようにおおっている。このごろ、私はなにもかもどうでもいいと思い始めている。大人として振る舞うということが輝いて見えた時期はとっくに過ぎ、長い螺旋階段をゆっくり降りている自分のイメージが頭を離れなくなった。
 そして、私は最近よく子供の頃のこと、それに美樹のことを考える。記憶の中の彼女の姿は何年たっても生々しく鮮やかで、現実の世界の中でも、私はあらゆるところに彼女を見つけることができる。
 雑踏ですれ違う女たち、挨拶するだけの知人、気心の知れた友人、彼女たちの自信と畏れが入りまじった目の中に私は美樹を見る。やさしげな顔にふと浮かぶ抜け目のない表情、バーの中で大きく響く笑い声、おもいがけない義理堅さ、なにかが起こったときのたくましさ、そして脆さ。美樹を思い出させる仕草や雰囲気に出会ったとき、私はすぐに今も昔のままであるだろうあの神社にもどり、ツタをはらって彼女の顔を見たいという衝動にかられる。

 そして、ときどき、私もあの暗い水をたたえた中で眠りにつきたいと考えることがある。
 でも、もう、私のために上から蓋をしてくれる人はいない。



← 前の回  ■ 目次
Novel Collectionsトップページ