作品名:海邪履水魚
作者:上山環三
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 定刻に一ノ瀬 綾香は姿を見せた。
 先日の定期会議の後、亜由美は綾香に連絡を取り、会議の一部始終を伝えた。そして真人と二人でプールを調べて欲しいとお願いをした。綾香の返事はもちろん『OK』である。
 そして今日、シューズロッカーの前で一人、綾香を待っていた真人の前に、わずかの遅れも見せる事なく彼女は颯爽と現れた。
 ――美人である。
 校内にファンクラブも存在する程の美貌であった。相変わらず超越とか孤高と言った言葉が似合いそうだと、真人は内心思ったりした。
 「じゃ、行きましょう」
 それだけ言うと、綾香は黙ったままである。真人は話し掛けるチャンスも得られぬままに、プールの入り口に着いた。
 曇り空の今日は幾分気温も下がり気味で、セミの声も照り付ける太陽の下で聞くよりかは、気の所為だろうけど、大人しいように思える。
 先ずプールの入り口の前に立って、綾香はスゥ――と、振り返った。その仕種がまた様になっている。
 「これからどうするの?」
 真人をその切れ長の目で見つめて、彼女は問う。ファンなら泣いて、いや卒倒して喜ぶ(?)に違いない。しかし、真人はと言うといつもの抜けたようにも思える口調で
 「そうですね〜、とりあえずしらみつぶしに調べていこうと思ってるんですけど・・・・」
 と、先輩の前で頭を掻いてみせる。それを、やる気があるのかないのか、綾香は沈黙を保ったまま、ただ見つめている。
 さすがに間が持たなくて
 「何か感じた事とかあれば言ってもらえませんか? 僕は霊感とかそう言う特別な力は全然ないんで、ココが出るのか出ないのか分からないんです」
 と、冗談っぽく真人も付け加える。
 ――まぁ、こうして二人の会話を聞いていると全くちぐはぐな気がしないでもないが、綾香はその真人の言葉が気に入らなかったらしく、やや感情を込めて言い返す。
 「――言っておくけど、私も妖気を探るなんて事はできないわよ」
 「霊視があるじゃないですか」
 それで十分です、と真人はにっこりと微笑んだ。
 綾香は不貞不貞しいとも図々しいとも言えるその後輩をしばらく黙視していたが、真人には態度での威圧が通じないのを悟ると――とりあえずはそうする事が綾香の場合、他人とのコミニュケーションを図るに最短な方法なのであったが――彼女はそのままプールの入り口を離れて歩き出す。
 「え? 先輩、どこ行くんですか!?」
 と、無言の綾香の行動に慌てる真人。
 プールの側面、金網の外側を綾香は突き進む。その足取りに全く乱れはない。
 真人は彼女の残り香を追う。
 しばらく行った所で彼女の歩みがぴたりと止まった。
 真人は唾を飲み込んで、綾香の後ろ姿を見つめる。
 「多田羅くん」
 「はいっ!」
 綾香は自分の足元を指差していた。それに気付いた真人は前に進み出てそこを覗き込む。
 コンクリートの基礎部分に正方形の小さな鉄の扉が付いていた。メンテナンスの為、プールの下へ潜り込めるのであろう。白いペンキはあちこちが剥げ、扉には赤茶けた錆が付着している。
 コンクリートと地面の境界部分ではアリがその巣穴から出入りしていた。
 無言のまま、真人は綾香の顔を見る。その視線が、扉を開けなさい、と脅迫していた。
 「ま、待って下さいよ〜! 中へ入れって言うんですか・・・・!?」
 その真人の言葉に、計算された完璧な笑みを持って綾香は応える。が、すぐに何事もなかったかのようにそれを消し去ると、今度は「開けるだけでいいわ」と、真人に容赦なく指令を下す。
 もちろん、その笑顔に見とれている場合ではない。
 「・・・・分かりましたよ」
 と、真人は意を決するとその場にしゃがんで、扉の取っ手に手をかける。その取っ手を九十度回転させれば扉は開く構造になっているらしい。そして、いきますよ、と綾香を見上げた真人は、当の彼女を見て思わず情けない声を上げた。
 「な、何やってるんスか!」
 見れば綾香は印を組み、精神集中して臨戦態勢に入っている!
 「早く開けなさい」
 その言葉は無情である。
 「勘弁して下さいよ! ここから何か出てくるんですか・・・・!?」
 真人は綾香と錆びた扉の交互を見て、顔を引き攣らせる。しかし――
 「いつまでも待たせないで。何も出てこないから、早く開けなさい」
 と、後輩の抗議には一切取り合わず、綾香は煩わしそうに言う。
 情け容赦ない業務命令に、一切の抵抗を諦めた真人は取っ手を見つめてしばし固まった。
 そして――、意を決すると彼はゆっくりとそれを回転させる。錆がボロボロと剥げ落ち、金属の擦れる音がギリギリと聞こえたが、取っ手は意外にあっさりと回った。
 「それじゃ、開けますよ!」
 多少投げ遣りに言って、彼は思い切って扉を開けた。
 ――その瞬間、冷やりとした空気が、膨らんだ風船から気が抜けるように吹き出す。
 「っ!」
 真人は思わず取っ手から手を離し、その見えない空気の流れに仰け反るように尻餅をつく。
 それは彼の後ろ、扉の正面に立っていた綾香に向かって、まるで食い付くかのように吹き付けた。その気の塊に、綾香は一閃の気を放つ。つまり、それは扉の奥で澱んでいた雑霊の塊である。彼女はその雑霊に向かって退魔術を仕掛けたのである・・・・。
 「先輩、大丈夫ですか!?」
 邪な風は掻き消え、真人の言葉に綾香は、別にどうと言う事はないと、無表情で応えて見せた。
 そして彼女は直ぐに
 「中を調べてみて」
 と、鬼のような冷徹さを持って――と言うのは真人の感である――真人に新たな指示を出す。もう慣れてしまったのか、彼は文句も言わず、膝をついて扉の中にすっぽりと顔を射し込んだ。
 さすがにその中は暗い。複雑に配置されたパイプが見えるが、奥の方は完全に闇である。これを見る限り、何も出てこないとは冗談にも言えない。
 しかし、真人の目を引いた物は彼のすぐ目の前にあった。
 これは・・・・結界石?
 扉と真人の体との間から射し込む光に照らされ、その石はあった。彼は証拠の品を見つけた刑事のように慎重に手を伸ばす――。
 「私が取るわ」
 不意に綾香の声がした。真人は慌てて手を引っ込める。彼は他に何もない事を確認すると、息苦しい空間から頭を抜いた。
 フウ〜ッと息をつく。どうやら無意識の内に呼吸を押さえていたようだ。その間に、今度は綾香が暗闇を覗き込んでいた。彼女を見下ろしながら、真人は改めて綾香が美人である事を認識する。――本物の美人はどんな角度から見ても美しいと形容できるのだ。
 「多田羅くん」
 くぐもった綾香の声が聞こえた。と、彼女はそこから顔を出し、真人に訊ねた。顔に誇りか何かが付いているけれど笑ってはいけない。
 「この結界石だけど、どう思う?」
 「そうですね〜」
 と、綾香の目線に合わせて中腰になった真人はしばし視線を宙に彷徨わすと、思い付くままに話し始める。
 「呪文を書いた石で任意の場所を囲んで結界を張ると言うやり方は割とポピュラーですね。山伏なんかが用いるのがそうです。でも・・・・、護符なんかを使ったものと比べれば初心者向きとは言えないと思います。そもそもこれは相手に気付かれないように結界を張る時に用いる事が多いですから、素人はあまり使わないものだと思うんですが・・・・」
 「そうね。その通りだわ」
 綾香も満足げに、小さく、しかしはっきりと頷いた。彼女も訳あって一通りの呪術を独学ながら学んだ身だ。先程の退魔の術もその賜物である。
 結界石を手に取って綾香が立ち上がると、それを待ち構えていたかのように真人は
 「例えばですね」
 と、自慢するわけでもなく蘊蓄を披露し始める。
 「西洋では結界を張るのに紋章が使われます。――日本じゃ部屋の四隅に盛り塩を置くとか、しめ縄や、ヒイラギの葉も結界の要として使われてます」
 「――大なり小なり色々あるわね」
 余談だが、結界を張ると言う事は、世界を区切ると言う事である。それとは別に、いわゆる魔法陣はこの世とこの世とは別の世界を連結するのに使われる。混同され易いが、両者は異質なものである。
 「釈迦に説法ですね〜」
 と、真人に言われても、綾香は
 「私が知っているのは実践呪術だけよ。あなたのようにオカルト全般と言うわけじゃない」
 と、磁石の反発の如く素っ気無い。彼女の方は真人の『趣味』を少なからず亜由美から聞いているようである。
 「ふ〜ん、そんなもんですか」
 「それより、このプールに誰かが結界を張っている事は確かなようね」
 今度は来た道を彼女は戻り始めた。彼女の手の中では先程の結界石がコリコリと音をたてている。
 「一体どう言う事ですか・・・・?」
 また慌てて真人が後に続く。やはり綾香は足を止めずに視界の端でちらりと彼を見据えると、すぐに前を向いてしまった。
 そして前を向いたまま、徐に綾香はこう言った。
 「本当は分かって言ってるんでしょう。ちょっとは自分の意見も言ってみたらどう――?」

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