作品名:闇へ
作者:谷川 裕
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「あんた狙撃手だろ?」

 表情を隠すのが下手な女だった。あくまでも想像でしかなかったが、南には女がその筋の人間だとはどうしても思えなかった。シートベルトのバックルを差し入れる時につかんだ女の手は血の気が引いていた。冷たく、小刻みに震えていたのだ。

「初めての仕事なのか?」

「何も話す必要はないと……」

 震える声で女が言った。つまり私が殺しましたと言っているようなものだった。女を待つ間、一度擦れ違っていた。持っていたジュラルミンケース。車に乗り込んだときには既に無かった。

「南…… S社の南 謙三?」

「元S社勤務が正解だが――」

 南は時折ルームミラーに目を配っていた。コーナーを上手く突き曲がる度に後続のロータリーエンジンと距離を空けることが出来た。ほぼ視界からは消えていたが大きく幹線道路を離れたわけではなかった。もし、後続車が二人の行き先を知っているならば近道が無いわけでは無かった。どこかで交錯する。道はいつか一つになる。できるだけ時間を稼ぎたかった。
 危ない! ルームミラーを注視する南、赤信号で停車する車のバンパーに飛び込もうとする。南は軽くサイドブレーキを引いた。白煙を上げながらコンマ数ミリ横を擦れ違う。南にとってはストップモーションのような物だった。加速する車、狭くなる視界。それに反比例するかのようにどこかで冷静さを取り戻す。考えるよりも先にステアリングに掛けた指先が反応した。サイドブレーキのステッチの一本一本が、シフトノブの球形が全て昔のままだった。あの時の自分に戻る事が出来た。

「酒を飲んで傷害事件を起こしたと聞いたわ。世界ラリーで総合優勝目前だったのに。馬鹿な男」

 南は横目で女を見た。不思議と嫌な感じは受けない。馬鹿な男。甘美な響きだった。涼しげな目元をした女だった。氷のように冷たい印象を与える。表情を読み取るのが難しい女だと南は思った。

「こんなところで何だがその傷害事件ってのもどうやら裏がありそうなんだな。まあ完全に俺の勘みたいな物で誰も信じはしないだろう。俺自身半信半疑だしな。なあ、あんたなんでこの仕事に乗ったんだ?」

「山ノ下よ」

 女がステアリングを握る南を見ながら言った。南のあんたという言葉を嫌ったようだった。誇り高い女。何となくそう南には思えた。失っていない誇り。まだどこかでそれを持ち続けていた。

「山ノ下さんかよ。名前なんて名乗って損はないもんだな。で、ぶっちゃけあんた狙撃したんだろ? この車と一度擦れ違ってる。持っていたジュラルミンのケース。あんたがこいつに乗り込むまでに聞いた二発の銃声。俺はつまり仕事を終えたあんたを無事Y駅まで送り届けるドライバーという訳なんだな」

「山ノ下 直美よ。あんたって呼ばれるのも悪くはないけど」

 南は苦笑した。どっちで呼んだら良い? どちらでもそんな会話をしばらく続けた。だいぶ女が気を楽にしているのが分かった。ステアリングを握る南にしてもその方が楽だった。前方の視界により集中できる。余計な事に気を使わなくて済むからだ。助手席の山ノ下にY駅までのナビゲーションをお願いするつもりなど毛頭無かったし後続のロータリーエンジンが姿を見せる前に駅まで先に行きたかった。

「直美さんよ、ひょっとしてあんた元警察官だろ? オリンピックに行き損ねたそんな名の警察官を知ってる」

 長いトンネルに入った。オレンジ色のネオンに包まれる。緩やかなカーブを描いていた。南は対向車線に鼻を突っ込みながら鮮やかに前の車を抜き去った。九十キロ以上は出ていた。
 直美は南が前方の車を抜き去る度に後ろを振り向き何かを確認しているようだった。上手いものね。 加速し続ける南の車。

「携帯の機種は?」

 唐突に直美が聞いてきた。何? 聞き返す南。直美が振り返り今さっき抜き去った車を指差した。運転席に居た女が持っていた携帯電話の事を言っていた。

「A社の最新モデルだろ」

「そう、良く見てるのね」

 直美が笑った。涼しげな目元がその時だけ一瞬緩む。笑った直美は全く別の女のようだった。優しさを氷のような何かで覆い隠している。そういう生き方をしてきたのか。

「薬で捕まったの。でもあれは濡れ衣よ。コーチから渡された風邪薬だったはず。国内の選考会で抜き打ちのドーピング検査が行われたの。引っかかったわ。その時から……」

「変わっちまった。何かが狂い始めた。そうだろ?」

 直美に頷きはなかった。オレンジのネオンが猛スピードで通り過ぎていく。対向車。前方の車とちょうど抜き去るタイミングが重なる。南が横目で直美を見た。にやりと口角を引き上げるのが分かった。南はシフトを落とす、水平対向の唸りが大きく車内に響く。アクセルペダルを踏み込んだ。前方の車。南のパッシングを受けてぎりぎりまで左に寄った。そこに鼻を突っ込む。対向車が飛び込んでくる。並んだ。一瞬の隙間。三台の車が二車線に平行に並ぶ。クラクションがやけに大きい。過去のものとなる。過ぎ去る救急車のサイレンのように音階を変えてクラクションが後方に押し流された。
 シフトを上げる南。タコメーターの針は四千回転で落ち着きを取り戻す。バランスを失った対向車がトンネルの壁に車の側面を擦り付ける。南はドアミラーに映る火花を遠くに見ていた。

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