作品名:神社の石
作者:紀美子
← 前の回  次の回 → ■ 目次

 その日、帰りの時間が終わり、私と美樹はいつものようにゆっくり荷物をまとめて教室を出た。私たちは廊下で先生にあいさつし、階段のところで同じクラスの女子とちょっとおしゃべりをした。下駄箱のところに行くと、同じクラスの川野くんが、どこか緊張したような顔で床に座っていた。わたしたちが下駄箱の前に立ったとき、川野くんはおずおずとした口調で美樹に話しかけてきた。
「北村って、野球うまいの?」
 川野くんは本当に野球の話をしたいわけではないだと、私にはすぐにわかった。彼は美樹の答えを待ちながら、座っている床の絨毯を落ちつかない感じでむしっていた。美樹はそんなとき他の女子がやるように、ふざけたことを言ったり、媚びをふくんだ声を出したりはしなかった。美樹は下駄箱から靴を取り出しながら、考え考え言った。
「打つ方はあんまりうまくないよ。ゴロとかそんなのばっかり。ホームランは一回も打ったことない。投げるのもまあまあかな。あんまりピッチャーやったことないから。でも、守備はけっこうできるよ。いつもうちの男子と一緒にノックとかやってるし」
 川野くんは思いがけずちゃんとした答えが返ってきたことに、おどろきながら嬉しそうだった。川野くんは立ち上がって、思い切ったように言った。
「日曜、おれら野球しようって言ってるけど、北村と遠藤も来る?」
 私たちは顔を見合わせた。美樹の真剣な目を見て、私は今は慎重に行動しなければならないのだと悟った。
「日曜はたぶん無理だと思う。うち、日曜日にみんなで掃除しないとだめだから」
 美樹はさらりとそう答えた。川野くんの顔はたちまち曇ったが、それでも彼はめげずに言った。
「じゃあ、放課後とかは?」
「放課後だったらいいよ」
 美樹は川野くんの方を見ずにそう言って、じゃあね、と彼の前を通り過ぎた。私は美樹のあとを追い、校門が近くなったところでうしろを振り返ってみた。川野くんはまだ下駄箱のところに立って私たちの方を見ていた。
「ねえ、美樹、川野くんってさあ」
 そう言いかけたとき、美樹が私の腕をぎゅっとにぎってささやいた。
「わたし、なんかおかしくなかった?」
 私はおもわず美樹をまじまじと見た。
「ぜんぜんおかしくなかったよ。なんで?」
「えー、だってさ、今日わたしがなんかおかしかったって、あとで言われたらだめじゃん」
「そっか」
 私はそう答えたが、美樹が私たちの計画のことだけを気にしていたわけでないのを知っていた。今日だけでなくいつも、美樹は川野くんと話すときだけ、ものすごくまじめな顔になった。でも、私はなにも言わなかった。その日はそんなことを話すのにふさわしい日ではなかった。
 私たちはいつもの雑貨屋さんをとおりすぎて、歩道と車道が消えかけの白い線だけでわかれているせまい道に入った。すぐ前を、同じ学年でちがうクラスの男子ふたりが歩いていて、もっと向こうには、下級生が集団でそれぞれのランドセルを電柱のまわりにおろし、次の電柱までそれを持っていく人をじゃんけんで決めようとしていた。
 ふと、キンモクセイの香りがして、私は顔を上げた。すぐ横の塀から、こんもりとした木の上の方だけが見えていた。密集した細かい黄色の花は、バラやチューリップのように派手ではなかったが、その小さな花ひとつひとつが、甘い可憐な香りをけんめいにふりまいているようだった。
 私はとつぜん、前を歩く美樹の腕をつかんで、彼女を立ち止まらせたいと思った。胸の奥から、なにか漠然とした、強い衝動がこみあげていた。私は美樹に、ここで向きを変えて、学校への道をもどろうと言いたかった。学校にもどって、もしまだ川野くんがいたら、やっぱり日曜日はひまだから、野球にいってもいいかと聞くのだ。それから、雑貨屋さんに行って、思いきって今月のおこづかいがぜんぶなくなるくらい高いオルゴールを、ふたりでお金を出し合って買ってもいい。月曜日、川野くんと美樹のことが噂になって、クラスのみんなにからかわれたら、そんなみんなをこんどはこっちが子供扱いしてやればいいのだ。
 だが、そのときの私にはそんな様々な感情をうまく言葉にすることができなかった。そして、美樹のお父さんのイメージが頭にぽっかりと浮かんで、私のその衝動を飲み込んでしまった。私は美樹の背中を見ながら、そのまま黙々と歩き続けた。
 神社が見えてきたころ、弱いシャワーのような雨がふりだした。傘を持っていなかった私と美樹は、ビニールのバッグを頭にのせて雨をしのいだ。神社の階段をのぼると、首筋と背中に雨がやわらかくあたった。
「誰もいないよね?」
 鳥居の下で美樹が言った。私は、たぶん、と答えた。美樹はそれが聞こえなかったように、早足で神社の裏へ向かった。私はぬかるみはじめた地面に気をつけながら、美樹のあとを追った。
 私が裏にまわったときには、美樹はもう塀のすぐそばにある例の場所にいた。美樹は厳しい目で私の全身を見まわした。
「弥生、荷物置いて来なきゃ。そのへんに置いてたらドロドロになっちゃうよ。表の石のとこに置いてきなよ。あそこなら木があるからぬれないし」
 私は自分の間抜けさに恥ずかしさを感じながら、美樹の言ったとおり、石のところに荷物を置きにいった。あわてて裏へもどると、美樹はひとりで細い木の枝とツタのようなものでできた大きな塊を動かそうとしていた。
「私もやる」
 私はあわてて美樹を手伝った。枯れた匂いがするその塊をどけると、その下にはドブのような、小さい川のような、たくさんの水が流れている穴が姿を現した。美樹はなんのためらいもなく、その中におりた。私はその場に立って、ただそれをながめていた。
「大丈夫?」
 流れのすぐそばにおりた美樹が私をふりかえって言った。私はよく考えもせずにうなずいた。美樹がまた私に背を向け、すぐあとで、カチカチカチ、というカッターの刃が出てくる音がした。私ののどから泣き声のような小さい音がもれて、美樹はまたこちらを向いた。薄暗がりの中で、美樹の目が日に照らされた水面のようにきらきらと光った。
「弥生、家に帰るとき、あんまり急いじゃだめだよ。いつもみたいにゆっくり歩いて。わかった?」
 私は大きくうなずいた。美樹は自分の足下を見下ろし、それから言った。
「じゃあね」
 うん、と答えたかったが、声が出てこなかった。私は美樹を見ながら、後ろ向きに歩いた。美樹は穴の中でしゃがみこみ、いいよ、と言った。それが合図だった。
 私はさっきどかしたツタの塊のところにもどった。塊は根を張ったようにずっしりと重く、ひとりだと思い切り体重をかけないとなかなか動かなかった。それでも私は必死でそれを引きずり回した。どれくらいの間そうしていたのかはおぼえていない。気がつくと、穴は元通りこんもりとしたツタと木の枝の塊と雑草の中に埋もれ、その存在すらまったくわからなくなっていた。
 私は荒い息で、石の上に置いた荷物のところに行った。額を汗がつたい、服もぬれて体中にへばりついていた。私は美樹の指示を思い出し、石の上に座ってハンカチで汗をふいた。しばらくじっとしていると、ひんやりとした空気で汗が少しずつひいていくのがわかった。私は荷物を手に持ち、入り口の鳥居へ向かった。
 なんとか階段を降り始めたが、足ががくがくして力が入らず、転ばないのが不思議なくらいだった。ひとりで神社の階段を歩くのは、想像していたよりも何倍も心細かった。ただ、耳に残る美樹の声だけが頼りだった。
 弥生、ゆっくり歩いて。急いじゃだめだよ。いつもみたいにゆっくり。
 私は階段の一段一段をしっかり意識しながら歩いた。下を向いて1、2、3、4、と階段の数をかぞえはじめると、すこし落ちついた気分になった。私は階段を降りきってからも、そのまま自分の歩数を数えながら歩いた。規則正しいリズムの合間に、美樹のはっきりとした声が私を助けてくれた。
 ゆっくり、弥生、ゆっくり歩いて。急いじゃだめだよ。ゆっくり、ゆっくり。
 私はそうやっていつものように家に帰った。お母さんは仕事で遅く、私がひとりで食べられるように夕食が用意してあった。そのおかげで私は体がふるえていること、食欲がないことを誰にも気付かれずにすんだ。私は7時にはベッドに入り、すぐに寝入った。
 翌朝起きたとき、私はもうふるえていなかった。朝ご飯もちゃんと食べることができた。お母さんにいってきますと言いながら、美樹との約束をちゃんと守れている自分に、強烈な誇らしさを感じたことをおぼえている。



 そのあとは断片的な記憶しかない。夢を思い出そうとするときのように、場面だけが頭に浮かんでくる。うちに警察の人がふたり来て、学校のあとどこへ行ったか聞かれ、あちこちで遊んでから美樹といつもの角で別れたと言ったこと。美樹のお父さんが別人のように取り乱して、うちのお父さんに怒鳴り散らしたこと。学校の全校集会で美樹が行方不明になったと、校長先生がみんなに話したこと。それからお母さんが、本当に美樹ちゃんがどこに行ったのか知らないの、とテレビを見ながら聞いてきたこと。どの場面でも、私の頭の中には美樹の声がこだましていた。
 弥生、ゆっくり行ってね、早く歩いちゃだめだよ、いつもみたいにゆっくり。
 私はときには落ちついて、ときには泣きじゃくり、でもぜったいに本当のことは言わなかった。2ヶ月もすると、警察の人も来なくなり、学校でも美樹の話題が出ることは少なくなった。じっと私の顔をのぞきこんでやさしい声で話していたお父さんとお母さんも、その頃にはふつうになって、家の手伝いをしないと前のように私をしかった。
 結局、美樹は家出したのだろうと大人たちは思ったようだった。美樹がお父さんを嫌っていたことを、施設の人も知っていたからだ。それでも私は美樹のいいつけを守り、いつもの自分のリズムをくずさなかった。私は小学校を卒業して中学にあがり、まるでなにもなかったかのように毎日を過ごした。
 ただ、ひとつだけ前と変わったことがあった。中学校は小学校と同じ地区にあり、二階と三階の窓からはあの神社が見えた。テストが早く終わったり、授業に退屈したりしたとき、私はいつも神社をながめた。石でできた灰色の鳥居、急な長い階段、掃除をするおばさんたちの姿、まわりを取り囲む木の濃い緑。私の中学の思い出は、その風景とともにあったといってもいい。
 だが、5年生のあの日以来、私はいちども神社の中に足を踏み入れていない。

← 前の回  次の回 → ■ 目次
Novel Collectionsトップページ