作品名:算盤小次郎の恋
作者:ゲン ヒデ
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それから二月後、
隣家・大橋の娘が、母親の織った反物を、呉服屋に持って行こうとしたら、小次郎が、しょぼくれた顔をして、出てきた。
「何を抱えているの」
「算盤なの」小次郎は、力無く答える。
「何処(どこか)へ習いに行くの」
「いいえ、家にゆとりがないから、返しに行くの。殺された手代のご主人は、店を閉じて、小利木町に、住んでいると聞いたから、訪ねるの」
「もったいないわねえ。……なんだか、落としそうよ。ちっと……」
八重が手直して、背中に長算盤を背負った格好になる。
「小次郎、宮本武蔵と決闘に行くみたいよ。ちょっとは勇ましくは……ないわねえ。屈まないで、背筋を伸ばして」
「うん」
「そうそう、それで武士らしく見えるわ」褒められ、小次郎は笑顔になる。
「どうして返すの?」
「父は、ほんの初歩しかできないし、塾へ通うには、お金が……、それにこれを見ていたら、亡くなった手代さんのことが思い出されて……」また、暗い顔に戻る。
「勘定方でないから、うちの父や兄も同じね。しかたがないわねえ。小利木町は、すぐ近くねえ。……そうだ小次郎、手みやげに、通る清水井の井戸水を汲んで、持っていったら。ちょっと待ってね」
家に戻り、瓢箪を持ってきた。
「水なんか、喜んでくれるの?」
「清水門の敷地内の井戸水は、茶を点てるのに最高の名水だと、町家の人たちは、憧れているのよ。あそこには、みだりに入れないし、門番が内職であの水を売ると処罰されるらしいのよ」
「じゃあ、いけないこと、じゃないの」
「大丈夫だわ、子供なら、お付き合いで差し上げるくらいなら、大目に見てくれるわ。ついでに、わたしも、呉服屋さんに持っていくわ」
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