作品名:平安遥か(T)万葉の人々
作者:ゲン ヒデ
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        家持邸
  地図上、平城京の上の東北に、東西に横たわる低い丘陵地帯の平城山(ならやま)の東部一帯が、佐保と呼ばれる地域である。
 清瀬の佐保川が南を流れ、いわば官僚の高級住宅街であり、家持の邸宅も祖父大伴安
麻呂の代からあった。(万葉集より家持邸が在ったことが判るが、他の貴族名は不明である。歴史上の有名人の住所不明には、筆者は困り果てています)
 初めて来た家持の邸宅に、日が落ちる前に着く。
 土塀に囲まれた敷地内は古い建物が6棟ある。その端に馬小屋がある。
「大殿、お帰りなさい」中年の男が、馬の手綱を取りに来た。
 家来の阿須奈麻呂という。顔みしりである。
「今回の薩摩への赴任は、わが家からは、この者だけを連れて行きますよ。節約のため、いつもと違って、すべて、簡略にしますよ。阿須奈麻呂、明日の旅立ちの準備は済んだか」
「はい、大丈夫です。それから、山部様から、珍味の食べ物の差し入れがありました」
(あれ、付け人は、気が利いているな、何を持ってきたのかな)と山部は思う。
「で、あれ(妻)は」
「夕餉のお支度を」
「で息子と娘は」
「例の歌集の書写中で」
 
         書写工房
「さてと手足を洗い、水でも飲もう」 井戸へ行く。
 次に、離れのような建物へ入る。見れば一人の少年が、机の上に巻物を広げ置き、紙帖に書き写している。
 横で十八位の娘が、紙帖に行線を引く作業をしている。
「あら、お父様」娘は視線を、父親から山部に移すと、不思議そうに見ていたが、急にびっくりした表情になる。純朴な田舎娘風な顔立ちである。
 少年も気づいて「ああ、父上」
「もうじき暗くなるから、永主、早めに切り上げろ。この方が白壁王のお子、山部様じゃ。あこ(吾子)手が 空いたら、なにか持ってきてくれい」

         押勝さま御予約
 母屋の南側の部屋に案内される。当時は、畳は貴重品なので、板敷きである。藁の座布団を勧められる。
 火桶の側で家持
「あれが、ちらっと話した歌集だよ。全部で今のところ20巻ある。惠美押勝(藤原仲麻呂が淳仁天皇から拝領した姓名)様が欲しがるので書き写しているが、とにかく、もう一組を作ってるわけだよ。でも渡しても、後が大変でなあ、なにぶん大和言葉を漢字で表しているから、読み方の伝授までせねばならぬ。なんとかならんかなあ」 
(当時は、ひらかた カタカナは完成していない)
     
            家をも名をも 
 話をしている途中、娘が入り、火桶に薪をくべた。
 出て、戻り
「干し柿と柿葉(茶)湯 ですがどうぞ」
 と勧める。柿の甘いさと柿葉の素朴なまろやかさが、口に広がる。
 前にすわった娘が言う。
 「ほんと、家宝の和歌集の読み方もむずかしいわ。最初の和歌からして、お父様までが、間違えているのですもの」
「ん、また。あれか」
 娘は詠う
『籠もよ み籠持ち ふくしもよ みふくし持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな のらさね そらみつやまとの国はおしなべて われこそませ われこそはのらめ 家をも名をも』

(カゴ、綺麗なカゴを、スコップ、綺麗なスコップを、そんないい物持って、この岡で野菜を摘んでるおねえさん、おうち知りたいな、教えてよ、名前も教えてよ、これでも僕はさ、この国を治めてるんだよ。信じない?ん、じゃ僕の家と名前全部言っちゃお…筆者愚訳) 
 
「と、お父様は教えてくれたのですがねえ、山部さま。でも」
 と言い、また唱うが、最後は
『われにこそはのらめ、家をも名をも』。(僕になんとか教えてよ、おうちとお名前すべてを)
「このほうが自然でしょ。一途に求婚してる感じで、女心に合うはずだわ」
「だが、一字増えると唱う調子が乱れるぞ。…そうじゃ、 山部君、君はどう思う」
「うーん、調子と女心、むずかしいですね。…(しばらく考え)わたしなら、 『われに こそはのらめ、家をも名をも』」
 
                娘予言者
 家持、しめたと、いう顔をして
「おい、あこ(吾子)、どうする どうする」
「なにがー」
「いま、山部のすめらみこと(天皇)がお前の名前を知りた いとの仰せじゃ、名前を明かすか」
 唖然と父親の顔を見る。
「いやですわ、お父様、この方は困りますわ」
「やはりあの男か、でもあの男出世せんぞ。ぱっとせんし。気に入らんなあ。この方は生活力があるぞ」
「まあね。でも あ(吾)は多くのお妃の一人なんていやなの。あ ひとりを大事に、大事に、愛してくれるひとがいいの、貧しくてもいいの」
「ん、お妃って何のことだ」
「決まってるでしょう。皇后、夫人、女御、女需、えーと他に何か呼び方が?」
「おいおい、それじゃあ帝だよ」
「そうよ、この方は本当に帝になられるわ。だって、さっきお会いした時、この方の周りに多くのお妃が取り巻いている姿を見たのよ、僅かの女性でも母が苦しんだのに、とてもとても」
「まさかあ。例の、霊感か。ははは、それで、いったい何人の妃様だね」
「二十人!いや、もっと多いかも」
 あっけにとられた、家持と山部
 しばらくして笑う。
 山部は、笑いすぎて、涙を出した。
「でも見たんだもん。それに、宿奈麻呂様の処へ行くを止めたのに、無視してどんな目に遭ったの、お父様」ぷりぷりして下がろうとしたに、父が言う
「ずっと前、押勝様の孫様のときは、本人に会う前だったろ。求婚歌を使者が唱うと、お前青ざめて断ったな、あれは何だったのだ」
「あの歌は、たわいもない相聞歌のはずなんだけど、歌を聞き終わったとたんゾーと寒気がしてね、それから水辺で切られてぎゃっと叫ぶ男の人の姿が見えたの。きっとそのお孫さんよ。もう、いやなこと、思い出させないで」
 身震いして退って行く。
唖然とする父親。
(いやはや、とんだ霊感娘だ)と思う山部
 

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