作品名:妄想ヒーロー
作者:佐藤イタル
← 前の回  次の回 → ■ 目次



廊下に出ると統一感のある全身を覆う黒タイツ着用の敵が僕らに刃物で切りかかってきた。それを井上君が軽い身のこなしで殴り倒していく。褒め称えたいくらい軽やかだ。
そして僕は、それをただ見ているだけだ。恥ずかしながら、僕は人を殴れない性なのである。


昔、一度だけ殴り合い喧嘩をしたことがあった。
胴を狙っていたつもりが、うっかり相手の頬をグーで殴ってしまったのだが――――痛かった。
良心が痛んだということもあったが、殴った時の僕の手が痛かった。そして相手を殴った分だけ、相手から反撃されて、その痛みが倍になって返ってくるのだ。当然の如く耐え難い。喧嘩相手の顔は残念ながら覚えていない。
そんな過去があったものだから、運動が出来ないという事実と合わせて僕は今役立たずと成り下がっているのだが……。


しかし、理想の中でくらい夢を見させて欲しい。
自分はヒーローになりたいのに、役立たずでは顔も立ってくれないではないか。英雄たるもの、憧れられる要素を一つでも持っていなければならない。
日頃叶わない夢を叶えたいとは思うが、あまり欲張っていては現実との差に自分が落胆してしまうだけなので、差し詰め僕が、誰よりも足の速いスプリンターということにしよう。
学校一、いや世界一速いのだ。だが、その事実を井上君以外には公表していない。ヒーローは長けている部分を隠してこそ、だ。

僕達以外の全校生徒達は、僕の避難命令を受けた三階の生徒達による口コミが広まって前者にならい、敵の巣窟となってしまったこの要塞外部に避難しているところだろう。
「邪魔だ!」
「すっこんでろ!」
僕が敵からの攻撃を避けて進んでいく。邪魔な悪漢は井上君が片付けていく。
幸い、屋上への階段は三階にあった。長い廊下を何とか通り抜け、水飲み場を横目に入れて、西側の一番奥まった場所にある階段を目指した。
いつの間にか障害がなくなっていた、だだっ広い廊下を突っ走る。井上君の足音はすぐに聞こえなくなってしまった。

風を切る音だけが気分良くゴォッと聞こえる。まるで僕自身が風になったみたいだった。
ビュゥビュゥと春先の肌寒い空気が僕をすり抜けていくのが、熱を帯びていく頬に心地よかった。
今まで感じたことの無い、想像の中だけで感じることのできるこの優越感は、僕の心を一杯に満たしてくれた。
だが、そんな気分に浸っている場合ではないことはわかっている。今、僕はこの学校の救世主にならなければいけないのだ。

僕の中の設定では、猿渡は魔物か何かに変身する。恐らくは巨大な大猿にでもなるのだろう。
僕の頭の中は、かっこよく言えば無限の可能性を秘めた泉だ。そして水が沸き始めたのは、高校に入学した当日から。
不思議な事に、敵はこういう顔だろう、等と想像しなくともイメージの方からやってきてくれるのだ。設定さえ考えれば、誰かが用意してくれていた、あるいは操作しているシナリオのように、物語だけが好き勝手に一人歩きする。だから僕の理想は多くて三つくらいまでしか反映されてくれない。
ここでこうなったらいいな、と希望しても、敵側に打ちのめされてしまうパターンが良くある。

物語の終わりは大抵井上君に現実に、呼び戻された時点で告げられる。途中で引き戻されるとなんだかすっきりしないが、それは致し方ない。負けてしまった物語を想像、いやむしろ妄想し続けていると、校内の人々はおろか、町内の人々までが悪にいいようにやられていく状況を見ていなければならない。指をくわえて、黙って見ているしかないのだ。
最悪の場合――――つまり死んでしまった場合は、今のところない。殺されそうになる寸前で、敵のボスが手を止める。

ボスというのは、猿渡のことではない。僕が思うに、もっともっと上の階級の敵だ。悪の軍団の親玉だろう。
僕が猿渡達に負けると、決まって現れる。
ワインレッドに近い赤色のマントを羽織りながらコツコツと足音をたてて、猿渡達と戦ったことで弱っている僕の近くに歩み寄ってくる。そして首にそっと手を添えて、徐々に力をこめていくのだ。指の骨張った感触から言えばきっと男だろう。
恐怖に唾の呑みこみ方さえ忘れてしまいそうになる。奥歯がカチカチと鳴るときもある。
何度体験しても、あの悪のボスは怖い。不思議な仮面で顔が見えないことも怖い。そしてどこか知っているような香りがすることも怖い。

知人が僕を恐ろしいほどに憎んでいることを、僕の中の、物語を作り上げている誰かが感じ取って、それが妄想の中に現れているんじゃないか……そう考えてしまうのだ。
恨みを買うような真似は、した覚えがない。だが知っている香りが漂ってくる。雰囲気も、誰かに似ている。それが怖いのだ。
怖くなったら、さっさと妄想を中断すればいい話なのだが、何故かこの物語は僕の意思では終わってくれない。一度始めると、他人に戻されるまでずっと続いていくのだ。

少し現実離れしているような気もする。だけど、嫌かと聞かれれば、首を横に振る準備はできている。
僕は現実と妄想の区別がつかなくなってしまうほど、小さい男ではない。
多分この妄想の物語は、僕が悪の親玉を倒すか、そいつの本性を暴いてやるまで、終止符を打つことは不可能なのだろう……と、勝手に解釈することにした。
最初の方は怖かったが、慣れてしまえば想像の中での話だ。現実で気にすることでもない。

フと考えてみると猿渡の変身後の顔は、実際の顔と何ら変わりないような気もする。一人で想像して腹の中で笑った。




← 前の回  次の回 → ■ 目次
Novel Collectionsトップページ