作品名:芸妓お嬢
作者:真北
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5−1

女郎置屋の格子窓の前から、一刻も早く離れたい。
お珠は数馬を連れて遠ざかり、防火用水の裏へ逃げ込んだ。
「こうやって、大名に大金を使わせ、国力を低下させているのでござる」
「幕府は、色まで使って、自分達の地位を守っているってことなのですね」
格子窓の場所へ、岡山藩士たちの姿が見えた。
「お嬢様、やつ等がかぎつけてきたようです。こちらに!」
「あっ、数馬様! なんだか、わくわくします」
育ちが、お嬢様なので緊迫感を感じないようだ。
路地に入り込み、植え込みから中庭に入る、
小さな木戸を潜り中に入った。
中通りとは打って変わり、こちらは、静けさの中だ。
芸者の着物姿のお珠は、動き難そうに付いて来る。
木戸がありそこを開けると座敷牢のような作りになっていた。
中は真っ暗で何かがいるような気配がした。
「数馬様。中に誰かいるようです」
恐る恐る、数馬が牢の中を覗くと、
白い手が伸びてきた。
それは、まさしく女郎の手である。
「どうか、どうか……」
「何か、所望いたすか?」
「水を汲んでくださいませぬか……」
扉の下に、茶碗がやっと通るほどの小窓があり、
そこに、茶碗が出された。
見ると、そこには井戸があり、
桶には水がはいっていた。
数馬は、茶碗に水を入れ、小窓に戻してやった。
水をすする音と共に、女郎の激しい咳がした。
「数馬様、この人、病に倒れているのです」
「病なのに、何もしてもらっていないようだ。
おい、何か食べ物を食しているのか?」
「もう、十日も何も食べておりません。
後は死ぬのを待つだけでございます」
「数馬様! 何か食べ物を差し上げたいです」
「しかし、お嬢様、中通りには藩士達がおります。
大門が閉まるのを待ちましょう」
ところが、そこへ、見張りの者が提灯を持ってやってきた。
「数馬様!」
「しまった! 見つかってしまう」
そう、思った時、手引きの声が聞こえた。
「こちらへ、お隠れください」
見ると、忍者らしき男が、手招いていた。
数馬とお珠は、一目散に忍者の元に走った。
塀である場所がカラクリ扉になってクルリと回転し、
見張りが提灯で照らした時には、三人の姿はそこには無くなった。
そして、ネコが一匹走り去った。
「チェッ、ネコか」
そういい、座敷牢を照らし、女郎がまだ生きているのかを確認した。
「おい、まだ、生きているのか?」
やせ細った腕を伸ばし、女郎はしぼり出すように言った。
「何か、食べ物を……」
「ああ、死んだら食わせてやるよ」
と、見張りは去っていった。
吉原は情報収集のために忍者がいつも常駐し、
大名や藩士らの謀反を監視していた。
犯罪人や悪徳業者などが、潜伏した場合も、
吉原内の番所で見張っていた。
いくら、隠れて潜伏したとしても、
お嬢が見つからずにいることは、不可能だった。

5−2

お珠は、忍者に頼み込んだ。
「あの人に、何か食べ物を与えてもらえませんか?」
「いいでしょう。その代わり、屋敷にお戻りねがいます」
「吉原に逃げ込んでも、どんなことをしても、逃げられないようですね」
「……そういう事になりますな。姫君は、姫君です」
「あなたの、お名前は?」
「三代目、服部半蔵」
数馬も、半蔵に伴い隠れ扉から堀の方に案内されていった。
ふたりが乗ってきた舟は、木戸のところから、
秘密の船着場に移動されていた。
半蔵と共に舟で日本橋川から大川に戻っていった。
無言のまま、三人は両国橋を潜り池田屋敷の小さな橋のたもとまで戻ってきた。
「あの女郎には、食事と薬をあたえておきましょう。
運がよければ助かることもありましょう」
「半蔵さん。よろしくおねがいします」
半蔵は、ひとり舟をこぎ出して行った。
数馬に手を引かれながら、お珠は池田屋敷の門のところまでやってきた。
門番が、お珠に気付き、藩士たちを呼び集めた。
「珠姫様、お帰りなさいませ。以後、勝手な行動はお慎みいただきますぞ」
お珠は、数馬に深々と頭を下げ、礼を言った。
「いろいろと、ありがとう。鳥取藩主の叔父様に、数馬様の今回の一件、
配慮するように伝えておきます。
どうか、脱藩はなかった事にして、私に仕えてもらえませんか?」
「お嬢様。それは、少し考えさえていただきたくござる」
お珠は、上屋敷に向かい共の者を引き連れ、去っていった。
片桐家老が数馬に言う。
「一ノ瀬。脱藩の件、しばし保留にしておくことにする。
町人たちが、奥座敷でお待ちかねだ。座敷に顔を出してもらうぞ」
「留さんたちが、座敷に……」
家老と同行し、奥座敷に向かった。
なんと、そこには、鳥取藩主の池田光政が半玉さんのお里、お染音。
およねや、留蔵などと、それは楽しく、芸者遊びをしていた。
光政と留蔵は、意気投合し、屋敷内の修繕や改築の話などに、
おおいに語らっていた。
そこへ、通された数馬は、どうしていいのか分からず、
ひれ伏し頭を下げていた。
「一ノ瀬か。よく、戻ってきてくれた。
珠姫をよく、面倒を見てくれたな。
隠密の者から、報告は受けておる。
どうだ。五百石を与えよう。脱藩は無かったことにせぬか?」
五百石とは、数馬にとって、今現在の十倍の石数となる。
現代に直すと、年収500万円から、5000万円に格上げになると言う、
夢のようような話だ。
留蔵も、他のみんなも、数馬が承諾するものと、固唾を呑んで待った。
「殿、拙者、この村正も返上し、侍を辞め町人になろうと決めました。
せっかくでござるが、その話無かったことにしていただきたく思います」
「数馬さん。そりゃー、もったいない。
せっかくの出世を棒に振るたーどうしてなんだい」
「拙者、門前町の木戸番が気に入りもうした。
侍は性に合わないでござる」
「ならば、一ノ瀬。町奉行所に与力として、
推薦しよう。それで、どうだ」
「拙者が、与力……ですか」
「どうだ。五百石も、もらってくれぬか?」
「殿様! ありがたき仕合せにござります」
「やったじゃないか。もの凄い立身出世だぜ。数馬さん」
夢のような、申し出に、数馬は信じられない思いでいた。
「めでたい、めでたい」
留蔵は、ドンちゃん騒ぎで踊りだした。

5−3

座敷は、最高に盛り上がっていた。
座敷の袖が、ゆっくりと左右に開かれると、
そこには、珠姫が、綺麗に着飾りあらわれた。
三味の音に合わせ、踊り始めるのだ。
「珠姫、流石じゃのうー。
そうだ。池田屋敷内に舞台を作ることにしよう。
どうじゃ、町人として芸妓になることは、憚《はばか》れるが、
屋敷内で藩士たちの余興として、踊りを披露してはどうじゃ」
それを、聞いたお珠は、踊りを中断し、藩主池田光政に沿いかかり。
「えっ、叔父様。それは、ほんとうでございますか。
芸妓にはなれないけど、舞台で踊れるなら、嬉しい!」
「そんなに嬉しいか。みなも喜ぶだろうし、
藩士の士気もあがるだろう。
それに、棟梁にも一肌脱いでもらわねばならなくなる。
これで、一件落着じゃ。あーははは」
なんと、光政は新藩主として、才覚にすぐれていた。
藩政をまるく納めるのであった。
「では、皆のもの、乾杯といこうではないか。
一ノ瀬、そちも乾杯せぬか!」
「あっ、拙者は……」
「いいから、いいから」
光政は、茶碗を数馬に渡し、直々に酒を注いだ。
「ぐいっと、いけ! さー、ぐいっと!」
まったく、こんな場面で酒は飲めないと、
数馬は言えないのだ。
お殿様の仰せでぐいっといってしまった。
「数馬さま!」
お珠が、叫んだ時には、時すでに遅し、数馬は卒倒していた。
池田屋敷は、ひっそりと静まり返っていた。
留蔵や半玉さんたちと、年配のおよねは、長屋に帰ったようだ。
新藩主の池田光政も、上屋敷に引き上げたあとだった。
数馬はお座敷の隣の部屋に寝かされていた。
夜の時は流れていく。
卒倒した数馬にお珠はずっと付き添っていた。
「剣豪で、料理の達人。でも、お酒に弱い下戸なんですね。このお方。うふふ」
一人で、笑うお珠だった。
数馬は、公開試合の場でお香の兄上を死なせたことに対し、
藩は数馬に落ち度は無いとお墨付きを与えている。
なぜなら、公式の場においての試合であり、勝者である一ノ瀬数馬が、
その時の褒美として村正を与えられた経緯があるからである。
闇鴎流派門下数名は、徒労を組んでいると言える。
一ノ瀬数馬にとっては、落ち度の無いことへの逆恨みで、
気のいい数馬が、呵責の念に囚われ、自ら江戸に身を置いたことに、
彼等は我慢できなかったのだ。
池田屋敷では、火の元の番人が巡回していた。
「珠姫様。まだ、こやつの介抱をなさっていたのですか?」
「ええっ、数馬さまは、ほんとうにいい方なんですよ。
皆さん、誤解をなさっているんです」
「そんな、風には見えないですが、ほどほどにお休みください。火の始末だけは、
十重、よろしくお頼み申し上げます」
そう、言い残し火の元番は立ち去った。
お珠は、行灯の端を開き、火を吹き消すと、小さな声で告げた。
「数馬様。珠はまた、屋敷を後にします。お元気で……」
数馬の部屋からお珠は出ていった。
数馬は、その声に気づいていたが、寝たふりをしていた。
そっと、目を開け、屋敷を後にするお珠の後を付けていった。
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