作品名:冬の花
作者:上原直也
← 前の回  次の回 → ■ 目次
もう、あれから一年が経ってしまったんだな、と、思った。あの日、和華ちゃんの顔を静かに照らしていた冬の日の光が、何故か印象深く僕の心のなかには残っていた。

 考え事をしているうちにいつの間にかミニコンポはCDの一番最後の曲を流しはじめていた。その曲は、それまでの曲のなかでも一際哀感を帯び、それでいてとても穏やかな感じのする曲だった。

たとえばそれは子供のときに海に潜って水中から太陽の光を見つめたときのことや、やわらかな雨が花を咲かせるように海面に波紋を描いていく様子を僕に連想させた。それはまだ哀しみという形に姿を留めながら、でも、新しい何かへと生まれ変わっていこうとしている想いのようなものを僕に感じさせた。

CDのジャケットに同封されている歌詞カードを見てみると、今流れている歌の曲名は「冬の花」という題名の歌であるようだった。僕は流れている歌に耳を澄ませながら、日本語に訳された歌詞を辿ってみた。

窓の外には雪が静かに降っていて
それは夜の闇を白く塗りつぶしていくように思える

きっと気がついた頃には全てを雪がやわらかく包んでくれている
あなたと伴に過ごした時間も話たことも全てみんな

時の流れがわたしとあなたの距離を遠ざけてしまった
こんな結末なんてわたしもあなたも望んでいなかったけれど
でも仕方がないのよね
これ以上無理をしてもお互いに疲れきってしまうだけなのはわかりきっているから

わたしたちは歩み寄ろうと十分努力した
だからもうこれでいいのよね
人生には選びようのないこともある
 
わたしたちは離れることでお互いに優しくなれるの
きっと離れることでいつまでもお互いの存在を尊重し合えるの

そう これでいいのよ
わたしたちが出会ったことを無駄にしないためにはこうするしかなかったの

今娘は暖炉の前でうとうとしてる
今朝雪が積もったのが嬉しくてはしゃぎすぎたみたいね
今娘が着ている服はこの前あなたがあの子の誕生日に送ってくれた花柄のパジャマ
あの子はあなたが送ってくれたパジャマがお気に入りみたい
淡い青色の花がプリントされたパジャマ
今日は雪が降っているからさしずめ冬の花っていうところかしら

まだまだ雪は降り止みそうにないみたい
きっと雪は朝まで静かに降り続けるでしょう

そう とても静かに


 

歌詞カードの最後のページには、このミュージシャンの経歴が簡単に説明されていた。


メアリー・ロレンス。現在三十二歳。カナダ生まれ。父親はほとんど無名だがロックバンドのボーカルだった。母親はクラシックピアノの先生。彼女が生まれて間もなく、父親は薬物中毒になり、その後ピストル自殺した。

彼女は母親に女手ひとつで育てられるが、その母親も彼女が十六歳のときに病気で亡くなる。その後、彼女はミュージシャンになることを目指し、ギターを片手に路上で歌を歌い続ける。

二十二歳のときにCDデビュー。二十六歳のときに結婚。相手は彼女のCDデビューを手がけたプロデューサー。一女をもうけるが、三十歳のときに離婚。離婚後も精力的に活動を続ける。アルバムに「冬の花」「りんご」「夜の月」等がある。哀しげな旋律のなかに静かな優しさを感じさせる歌声が特徴的である。


僕はCDの最後の曲が部屋の冷たい空気のなかに吸い込まれるようにして消えてしまうと、それまで座っていたソファーの上から立ち上がった。

 もう疲れたし、寝てしまおうと思った。また明日はバイトがある。

僕は浴室に行って歯を磨くと、部屋の電気を消した。電気を消すと、部屋のなかは真っ暗になった。しかし間もなくすると、次第に目が慣れてきて、それが完全な暗闇ではなくて、月の光がほのかに溶けたやわらかな闇であることに気がついた。僕はカーテンを少し開けて、夜空に浮かぶ月の姿を探した。

月は西の空のやや傾いた場所にひっそりと輝いていた。満月ではなく、小さな三日月だった。そのレモン色の優しい光は網膜を通して僕の意識の深い場所に届き、それは僕の心の一番やわらかい場所をそっと震わせて行った。僕はずっと遠く昔の何かを思い出しそうになったけれど、でも、結局何も思い出せないままに終わった。ただ、何かがひっかかっている感触だけが残った。

僕は再びカーテンを閉じると、ロフトに上がって布団の上に横になった。瞼を閉じるとすぐに意識の上から眠りが広がってくるのがわかった。

和華ちゃんをモデルにした小説は結局完成しなかった。書いている途中でそれまで自分が書こうとしていたことがよくわからなくなってしまったのだ。まるで水に濡れてしまった水彩画のように。色が滲んでしまってはじめの形がわからなくなってしまったのだ。

 また今度頑張ってちゃんと小説を最後まで書き上げなくちゃな、と僕は思った。そしてできるならその話には希望があった方がいいと思った。その物語を読み終えたひとが、ほんのわずかでも勇気付けられたり、前向きな気持ちになることができる小説。

 そうだ。今度は冬の花について書こうと思った。和華ちゃんが冬の花を育てる話。

 冬の花は育てるのが難しくてなかなか花が咲かないのだけれど、でも、最後、透き通るようにきれいな水色の花がそっと静かに咲く・・そんな話が書けたらいいなと僕は願うように思った。


「またね。」と、和華ちゃんは言った。
「また今度東京にも遊びにきてよ。」と、僕は言った。
「そうやね。また時間できたらいくわ。」と、和華ちゃんは微笑んで言った。

 あの日、友人の結婚式の翌日、和華ちゃんとは梅田駅の改札の前で別れた。

 そのあと僕は再び鈍行電車に乗ってひとり東京まで戻った。

 大阪を出で名古屋を過ぎたあたりから急に天気は崩れはじめて、静岡に入った頃には雨が降り始めた。それは激しくも降らなければ弱くも降らない淡々とした雨だった。雨は暗い電車の窓ガラスに線を引くように流れていった。

 あの結婚式があった日から、和華ちゃんにも他の友達にも会っていない。みんな今頃どうしているのだろうと思う。元気にしているのだろうか。またいつの日かみんなに会いたいな、と、僕は思う。

 身体が疲れていたのか、やがていつもよりも深い眠りが僕の意識を包み込んだ。







← 前の回  次の回 → ■ 目次
Novel Collectionsトップページ