作品名:勿忘草
作者:亜沙美
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第三章

長編勿忘草

第三章

「このままでは」
と、医者は苦虫を噛み潰したような顔で僕をみた。
「君は本当に自分の名に、泥を塗るつもりかい?このまま治療をしないでほうって
おけば、確実に命は無い。君のような、数多くの学生たちの憧れのような人間が、
三十六で、もうあの世へ行くとなれば、これは大騒ぎになり、君のお母さんだって
こまるだろう。とにかくね、はやく陽子線を受けに行きなさい。いつまでも絶望し
ていては始まらないよ。」
僕は、藩のすさまじい話と、勿忘草で、彼のような家もあるんだなあ、と、感心し
てしまったのであった。しかし、完全に同じ、ということはできなかった。藩の様
な強さを、僕は持っていない。そう思っていた。

その日も、中島さんのメールに誘われて、僕は、会議に出席した。
「今日は、私が話をします。」
今日の語り部は、おばあさんだった。真っ白い髪の毛に、ピンクの着物を着て、か
わいげなおばあさんだった。
「私は、昨日主人の一周忌を終えました。私も、皆さんと同じように、もしかした
ら主人を殺してしまったのかも知れません。」
おばあさんは意外に冷静だった。一年たてばそうなるのだろうか。
「私は、佐藤愛子と申します。主人と二人で、ぶどう園を経営しております。子供
は、いません。ほしかったけど、不妊治療ができなかったんです。私が子宮頸癌の
ために、結婚してすぐ、手術しなければならなかったんで。でも、主人は、お前さ
えいてくれれば何にもいらない、といって、子供ができなくても、いろいろ面白い
ことをしてくれました。寄席に連れて行ってくれて、私を笑わせてくれましたし、
良いレストランがあれば、すきな料理を食べさせてくれました。だから、もしかし
たら、私は主人に頼りすぎたのかもしれません。」
僕は、子供というものがあまり好きではなかったから、彼女の話を、真に受けるこ
とができなかった。もし、子供ができなくて、悲しいなら、心中すれば良いじゃな
いか、とさえ思ってしまった。この人はできる部位は違うけど、癌を経験している
ひとであれば尚更そうだろう。
実は、僕も最近、むしゃくしゃするようになった。たぶん進行しているんだろう。
立ち上がろうとしたりすると、酷い胸痛で動けなくなってしまうときがある。それ
を芸大の中でみせてしまったために、学園長が、肩を叩くしぐさをしているような
のだ。そうなるんなら、母にしかられる前に、死んでおけばよかった、と、思うよ
うになった。
おばあさんは続ける。
「最初に主人に異変が生じたのは、主人が自転車で買いものにいったときでした。
自転車で転んで、足を骨折したのです。サドルに、コードの端が引っかかっている
のに気がつかなかったそうで、コートを引っ張ったら、自転車が諸に倒れて、主人
はその下敷きになったんです。幸い、そのときはすぐ回復しましたが、翌年に、犬
の散歩をしていたとき、側溝に落ちて、同じところを骨折しました。さらにそれが
治ってきたと思ったら、夜中にトイレに起きて、電気をつけるのを忘れていって、
トイレの段差に躓いて転び、背骨を圧迫骨折したんです。それから、主人は段々に
元気が無くなっていき、まず下痢や便秘などから始まって、体には異常がなく、精
神科にいって、うつ病と診断されました。とにかく、本当に悲しそうな顔で、食事
ものどを通らないといい、かといって大好きなだいふくだけを食べて、、、。本当
にあたしは、どうしたら、助けられるかもわからず、とりあえず、精神科の先生の
はなしを良く聞きなと、叱る位しかできなかったのです。
主人は、そういうと、とにかく薬中毒のようになりました。朝昼晩関係なく、一日
全部の抗欝薬を一度に飲んだり、病院にいけば、どうしてもつらいから、強くして
くれ、の一点張りで。で、強くしてもらったら、口がパカパカと常に動いているよ
うになって。私はおろおろするしかできませんでした。周りの人からの助けもあり
ません。ましてや、子供もいないので、、、。一度だけ、心中を図ろうとしました
が、怖くてできませんでした。」
「そうだよ、そのときだよ!」と僕は頭の中でこういっていた。
「主人は、高校教師でした。よく、学園ドラマの、三年B組み何とか先生では、教え
子さんたちが、よく先生のお宅を訪問して、受験勉強したりとかしますよね。でも
ね、実際の学校はそんなことありません。先生の家を訪問しようとする生徒なんて
いませんよ。あの先生は、教え子の一人に、輸血を頼んだりしますけど、そんなこ
と、絶対無いですよ。仮にそういうことが頼める先生というのは、存在しないので
はないでしょうか。先生なんて生徒に文句言われるだけで、それでおしまいです。
あっすいません、ここに立派な芸大の先生がいることを忘れていました。稲葉先生、
本当にもうしわけないです。」
「いえ、続けてください。芸大の教授だって、似たような者ですから。僕も三年B
組シリーズは見てましたし。もっと、具体的に話してくれませんか?」
「ええ、じゃあ、続けます。主人は、定年する迄、Y高校の国語教師だったんです。
結婚したときは、本当に忙しくて、なかなかつらいからかな、と思って、家事は私
がやっておりました。しかし、何年たったも家事はしませんでした。時には夜中の
二時、三時まで戻らないこともありました。
あるときです。生徒さんのお父様から電話がありました。それを聞いて、びっくり
しました。女子生徒が飛び降り自殺で亡くなったというのです。彼女は、この間の
かたが、おっしゃっていたような、芸術系の学部を目指していたそうなんです。で、
主人が反対をして、彼女は飛び降りたというのです。ちょっと重複するようですが、
ごめんなさいね。私は主人を問い詰めました。『どうして彼女を自殺にまで追い込
んだの?』と、すると主人は『仕事だから仕方ない』というんですよ。そして、主
人がY高校に赴任して、なくなった人は全部で五人。みんな芸術や体育や、すばら
しい学問を学ぼうとしている子達の命を、主人が全て奪ったとしか考えられなくて。
そうこうしているうちに、主人は定年になりました。そして、先ほど述べたような
ようになりました。そのとき、私は思ったのです。『ざまあみろ、たくさん生徒さ
んたちを殺してきた結果だ』と。」
うん、確かにそうだろう。そういう生徒を何人か僕は受け持ったことがあるが、心
が傷ついている、ということは、とても綺麗な事なのかもしれないけれど、迷惑行
為であることも僕は知ってる。心が傷つくと、人は、うつ病や統合失調症といった
非常に厄介なものを引き起こすのだ。僕も一度だけ、その病気にかかった生徒の担
任をしたことがあるが、とにかく、こちらのほうがおかしくなるのではないか、と
思わせる生徒だった。普通の生徒に伝えるべきことを、何十倍も掘り下げて、わか
りやすくしなければならないし、言いまわしによれば、すぐ泣き叫ぶ。僕も「仕事」
と、認識し、いやそうしなければ、僕自身の身が立たないのだ。
「それを皮切りに、」
おばあさんは話を続けた。
「亡くなった生徒さんの親御さんが次々に見えました。みんな、主人のことを恨ん
でいました。中には、お父様で、『お前が殺した!』と、怒鳴りつけてくる人もい
たんです。主人は『進路指導だから』とか、『教師に反抗する不良学生でしたから、
妥当な処分だったと思います』など言っていました。
ある時、主人のところに、望月しのぶさんという女子生徒さんのお父様とお母様が
訪ねてきたんです。よく話をききますと、しのぶさんはとても優秀な生徒だったよ
うです。しかし、しかし今は、、、あの世にいると聞きました。高校生のとき、担
任教師を刺して殺したというのです。その担任教師は女性だったそうです。しのぶ
さんは旧家の一人娘です。おじいさま、おばあさま、お父様、お母様と暮らしてお
りました。しかし、その女性教師は、しのぶさんが一人っ子だったことをきっかけ
に、酷く彼女をいじめたそうです。『スーパーマーケットで、お母さんを取りあっ
て喧嘩している子供を見たことがある?貴方はそれを経験していないから、他の人
よりひとつ格が下なのよ。わたしが、格を上にしてあげるから。貴方は忠実な下僕
でありなさい。』というのが、口癖のようになり、しのぶさんは追い込まれてしま
ったのでしょう。『わたしがどれくらい強いか先生、みせてあげます。』と言い、
刺身包丁を万引きして、授業が始まる前に、その教師を殺害したしそうなんです。
そして彼女自身も、屋上から飛び降りて、帰らぬ人となりました。そして、彼女の
お母様は、こういわれました。その、指導をしろ、といったのが、家の主人だった
と。おばあさまも。おじいさまも、しのぶさんがなくなって数年後になくなりまし
た。主人は、今度もしらばっくれたようでした。すると、お母様はこういわれまし
た。
『奥さん、あなた子供産んだこと無いでしょ。どのくらい苦しいか知っていますか
?エベレストに上るのと同じくらい苦しいんですよ、だから、ご主人がいかに鬼教
師であっても、そうして平気なんですね。いくら、点数が悪かろうが、子供は子供
で、私たちの物です!先生方の進学率を上げるためのツールじゃありませんよ。う
ちのこがどれだけ苦しんだかわかりますか?一人っ子は、悪人じゃありません。一
人しか子供が無い親は、兄弟がない分、最初で最後の育児ですから、責任は重大な
んですよ!悪人にしないために!時にはどうしても学校の先生に頼らなければいけ
ない時だってあるんですよ!それを拒否するばかりか、身分が低いと押し付けるの
は、あの子の人権を破壊するようなものじゃないですか!』
私は、もうどうしたら良いのかわかりませんでしたよ。」
おばあさんは、涙を流した。藩が、そっと、手ぬぐいを手渡してくれた。

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