作品名:吉野彷徨(U)若き妃の章
作者:ゲン ヒデ
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 宴が終わると、讃良は、大祖母と間人皇女に、賢所へ連れていかれた。伊勢の天照大神への祝詞の作法を、さっそく学ぶためである。 
 残った誌斐ら侍女らと一緒に、大海人、額田王、楽人らが、宴の後かたづけをする。仕切の几帳を取付け直す、現代で言えば、大広間にした室内に、はずしたた襖(ふすま)を戻しているようなものである。
 
 額田王は、大海人の最初の妻であり、少女の頃から斉明女帝の神事に仕える、巫女を兼ねた女官である。
 かたづけを終え、大海人は一服する。と、額田王が、伊賀皇子と十市姫の婚の、中大兄からの申し出の話をする。兄との関係がより強まる話に、満足げの表情を、大海人は浮かべた。
 
 楽人の頭が、子供の楽人をつれ、大海人に近づく。随臣・多冶比(たじひ)嶋、あの忍びの頭である。表向きの仕事の語り部の勤めの一つに、楽器を使う楽人もこなした。
「殿、この子が、気になる事を言いまして。これ猿よ、申し上げよ」
 
 その子供、額田王の仕童である。父親は石見国(島根県)在住で、嶋の配下。出世させるため、子を飛鳥に来させている。
 子供は、臆することなく話す。
「額田王様からの布施の品を飛鳥寺へ納めに行ったとき、余豊璋様の御家来と寺の僧が、建物の隅でこっそりと話し合っているのを見つけまして」
「何の話をしていたのだ」
「大和言葉で、ひそひそと話されておられたので、内容は……。ですが、しきりに『オリュプタ』という言葉を話されました、確か新羅の言葉で、『難しい』という意味と思います」石見に新羅人が来るときに、片言ながら学んだのである。
 島が付け加える、
「その僧、道行という新羅僧で、家来、たしか徳執得という男が、亡き父の法要を頼んでいたとか」
「それなら、不審はなかろう。豊璋は百済の皇子、その家来は新羅のことについて何でも知りたいから、聞き出していたのであろう。その『オリュプタ・難しい』は百済の国難についての感想ではないか」
「私め、に気が付くと、ぎょっとした顔を二人ともなされ、すぐ作り笑いのような表情で、私めに挨拶を……。あれは、秘密を聞かれた素振りだと思います」
 嶋の配下は、子供といえども、観察力がある。
「うーん……」考え込んでいる大海人に、嶋は、
「念のため、その者らを監視させています」
「そつがないのう」
 
 嶋のすばやい対処に感心した大海人、前に座っている子供に
「たしか、石見の封戸(領地)の管理をしている柿本の子か」
「はい、柿本の猿と申します」
 三人のやり取りを聞いていた額田王が
「殿、この子はよく気が利いて、利発でしてね。歌を教えていますの」
「ほう、猿よ、一つ歌を披露してくれぬかな」
「はい、国を出てくるときを思い出した歌を披露します」

    『♪石見のや 高角山(たかつのやま)の 
      木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか♪』
 

「ほう? 十二才で、石見の国に妻がいるのか」
 猿が申年生まれであろうと、推測して言った。
「いえ、別れた幼なじみで」
「はは、世間ずれしない子供はいい歌を作るのう」といい、聞いた和歌を、大海人は復唱した。

【後に柿本猿が、藤原不比等の和歌の師匠になり、不比等がペンネームを柿本人麻呂として、師匠の手本の和歌を含む歌集を作る。ある事情で歌集を手放したのが、大伴家持に渡り、万葉集に載せられる、との粗筋を筆者は考えている】
  
          
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