作品名:吉野彷徨(V)大乱の章
作者:ゲン ヒデ
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 それぞれが、役目の仕事へと離れたとき、讃良は柳箱を取り出し、書き物を始めた。
 残っていた大伯皇女(おおくのひめみこ)十一歳、がのぞきこみ、
「叔母さま、何を書いているの?」
 平かな、カタカナはない時代である。ぎっしりと漢字を書き込んでいた讃良は、
「心覚えとして、気に入った和歌(うた)を、書いているのよ」
「へえ、」感心するように紙帖を見つめ、
「叔母さま、ここはどう読むの」紙の右を示した。
「ああ、これはね、殿が、鎌足の娘さんに妻問いの和歌を贈ったのだけど、使者が間違えて、妹さんの処へ行ったの。で、お返しの歌を、その妹・五百重姫(いおえのいらつめ)さん……あなたと同じくらいの年の人、が返した和歌なのよ」
といい、讃良は字をなぞり、
「お父様はね、『♪我が里に 大雪降れり 大原の 古にし里に 降らまくは後♪』」
(わが里に大雪が降り積もっている。おまえの住む大原の古びた里に降るのはずっと後のことだろうよ)*注1

「で、その妹さんはね、『♪わが岡の おかみに言いて 降らしめし 雪の砕けし そこに散りけむ♪』」
(わたしの岡の水神にお願いして降らせてもらった雪の、砕けたかけらがそっちに降ったのでしょう)*注2 
 
 聞いた少女は、笑いだし、
「お父様の負けねえ。お父様の子供っぽい和歌に、わたしと同じ子供のほうが、大人びた和歌で返しているわ」
「そうでしょう」讃良も笑いながら、仏前を片づけている大海人を見る。
 
 ばつの悪そうに大海人は、二人に近寄り、
「相手に合わした程度で作ったのだが、それより幼い妹にしてやられた。だがな、わしがここへ来るとき、しみじみと考えた和歌(うた)がある。それを披露しよう」といい、

「♪み吉野の耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間なくぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思いつつぞ来(こ)し その山道を♪」
(吉野の耳我の嶺に、絶え間もなく雪は降っていた。休む間もなく雨は降っていた。その雪が絶え間もないように、その雨が休む間もないように、曲がり角ごとに物思いをしながら来たのだ、その山道を)*注3

「どうだ、いいだろう。讃良、これも書いてくれ」
「はい、書いておきます」といい、讃良は筆をすべらした。
「わあ、わたしも和歌を学びたいなあ」大伯がいうと、父は
「日ごろから物事について感じたことを、すなおに言葉にだせるような習慣を付けておけばいいのさ」
「大伯(おおく)にも筆記用具を上げて、読み書きを教えましょうか」讃良がにこやかに言うと、
「わあ、叔母さまありがとう」大伯は笑みを浮かべた。
      
       注1,2,3,原文、訳文ともに(千人万首)さまのHPからの引用
            
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