作品名:勿忘草
作者:亜沙美
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第二章

翌日、僕はまたあのサークルに行ってみた。今度は誰が話すのか、聞いてみたかった。
中島さんの、携帯番号をもらっていたので、彼女に連絡をとり、しばらく聞くだけで
参加させてもらうことにした。
「今日は、僕が話をします。」
藩が発言した。
「ええと、いま僕は、父と暮らしてます。僕は車椅子だけど、父は何かと世話をして、
時々喧嘩したりもあるけど、今やっと、穏やかな生活になりました。僕は、こういう
恐ろしい姿をしていますが、決して、やくざとかではないから、安心してください。」
確かに普通の人からみたら、そう思うだろう。全身入れ墨で覆われ、黒の紋付羽織袴
を身につけ、黒い、長い髪をしている。一見すると女性と間違えられるほど美しいが、
袖の間からびっしりと彫られた入れ墨に、驚くほどの落差がある。
「僕は彫藩といいます。本名はあまり言いたくないのですが、ここでは名乗るように
しています。本名は高橋友哉です。」
実にありふれた名前だった。藩は続ける。
「僕は、父と母の一人息子でした。しかし、父も母も家にいるのに保育園に行かされ
ていました。保育園というものは、父母が働いていて、お家にいないから、家で一人
では寂しいから、みんな保育園にくるんだよ、と、保育園の園長先生から聞かされま
した。しかし、隣の席に座った女の子が、『先生、友哉君のパパと、ママは、ずっと
おうちにいるのに、何で保育園にきているの?』と、言いました。すると先生は、『
そんなこといっちゃいけません!友哉君は、ちゃんとわけがあるからここに来ている
んだよ』といいました。だから僕は家の家族が、他の人と、違うんだなってことが、
わかりました。
僕は小学校に入学しました。公立の、保育園からそのまま持ち上がりの、小学校でした。
あまり規模は大きくは無いところで、クラスも、保育園の人たちとそのまま同じでした。
初めての授業参観のときでした。そのとき、来てくれたのは母ではなく父でした。母は、
前日にお皿を割って、大暴れをして、病院に運ばれて、強い薬をもらって、朝起きるこ
とができなくて、授業参観にこれなかった、というのが理由でしたが、もう40年の昔
ですから、その頃は、父親が授業参観に来るというのはありえないことでした。父は、
僕が、教科書を読むと、すごくニコニコして、『友哉!いいぞやれやれ!』といい、ま
るでそれが、野球の観客みたいな声でした。隣のおば様が、『高橋さん、ちょっと声が
大きいですよ!』と、注意してくれたけど、父は言うことを聞かずに『何を言っている
んだ、今日はうちの友哉の晴れ舞台じゃないか!』といって、六甲卸を大声で歌いだす
始末で…。周りの同級生がどっと笑いました。僕の両親は頭がおかしいんだ、というこ
とが、僕にも、クラスのみんなにもわかってしまいました。」
藩は続ける。
「それから、ずっと僕は、いじめの標的になってしまいました。ランドセルを四つくら
い背負わされたり、ゴキブリを頭に載せられたり、靴の中に泥を入れられたり…。
それを両親に言っても通用しませんでした。父も母も、こうしろああしろとか、なんの
アドバイスもくれませんでした。ゴキブリと口にすれば、母は、金切り声を上げます。
泥といえば、友哉は大島紬になれる、と父はいいます。先生に相談して、父母に話して
もらうように訴えたこともあったけど、先生でさえも、父母に伝えることができないの
でした。先生の話でも、金切り声をあげたり、変なほうに話がずれていってしまうんで
す。先生は、僕が小学六年生になった時、職員室に呼び出して、こういいました。「友
哉君、あなたのお父さんとお母さんは、統合失調症という病気なの。友哉君も、お父さ
んとお母さんを助けてあげてね。』と。病気、となれば、どうしても病気の人の訴えが
最優先されてしまいます。だから、僕はただの付属品で、僕のこの苦しみは、誰もわか
ってくれないんだって、そのとき思いました。そのとき、僕の体は怒りでみなぎってい
ました。中学も、やっぱり地元の中学しか入れなくて。僕の家の収入は障害年金と生活
保護であることも知って、だから、いい学校にも行けない。僕は、行きたい学校があり
ました。まだ、開学したばかりの、私立高校でした。でも、高校図鑑で、その学費が途
方もなく高くて、とても家の経済力では、いけないこともわかりました。どうして僕は
生まれてきたんだろう、社会人としてまったく機能をしていない親に、子供を生む権利
はない、生まれてくる子がどんなに苦しいかもわからない、本当に無責任すぎる、子供
だって、文化的な生き方ができると詠われていても、親の経済力や、環境によってでき
る者と、できない者に、はっきり区分されてしまうのなら、もう、死にたいとおもい、
飛び降り自殺を図りました。でも、できなかったんです。僕が飛び降りたのは、自宅の
マンションの屋上からで、両親のめが届くところ。僕が飛び降りたとき、偶然に偶然に、
母が買い物から帰ってきて、すぐ僕を病院まで運んだそうなんです。母のドコにそんな
力があったのか、見当がつきません。でも結果は、楽になるどころか、もっと悪くなり
ました。はい、僕は、歩けなくなってしまったんです。」
そういって、彼は車椅子の車輪を叩いた。
「僕は母のことをすごく恨みました。どうしてとめたのか、どうして死なせてくれなか
ったのか、お前のおかげで、僕は歩けなくなってしまった、責任取れよ、など言い、母
を責めました。でも、母は、「たった一人の息子だから」としか言いませんでした。僕
は本当に腹が立って、『死ね!もうしんじまえ!愚鈍なお前なんか!』と叫びました。
母は、それだけは言ってほしくない言葉だったらしく、一気にベランダへ疾走していき
…、二度と戻ってきませんでした…。
父は、母が死んでからは、家事ができないから、ということで、援護寮に収監されてい
きました。僕はひとりになって、結局何もかも失い、夜の街を徘徊していたら、不良に
絡まれて、このまま殺してと思ったけれど、そうはさせないんですね、神は。そのとき、
入れ墨をしていたおじいさんが歩いてきて、そう、左手にすごい立派な、不動尊の絵が
彫られていて…。その方がきたら、不良たちはみんな逃げていきました。その方が、彫
るに絆と書いて、「ほりはん」と名乗っていたんです。僕は弟子入りさせてもらい、い
ろんな方の背中を預かって、30の誕生日に「彫藩」という名前をもらいました。そし
て、僕は、入れ墨の世界大会に応募して、グランプリをもらって、今に至るわけですが、
今でも後悔しているんですよ、母にあんなこと言わなければ良かったと。きっと入れ墨
は許してくれなかったでしょう。母は、その対にいましたからね。」
「お母様は、何をされていたんですか?」
僕は聞いた。
「ピアノの伴奏してました。ベートーベンをこよなく愛して。僕が子供の頃は、まだ、
ピアノの記憶を残していました。よくベートーベンのソナタとか弾いていましたね。
でも、統合失調症になって次第にできなくなっていったんでしょう。きっと、好きで
病気になったわけじゃない。やっぱり、傷ついていたんだとおもうんです。父は、僕の
個展を見に来てくれて、昨年から同居するようになりましたが、あのときのことは、し
かたなかったことにしよう、と約束しました。今は、入れ墨の道に行ってしまったし、
歩くこともできないから、何の償いもできないけれど、せめて父には、安楽に過ごして
もらいたくて。僕は、本当に一人になったら、弟子にこの名を譲り、高橋友哉として、
髪を下ろそうと思うんです。長くなりましたが、以上です。」
藩は、ここまでを一気に語った。入れ墨、、、僕も当初は悪人のするものだと思ってい
たが、今は、芸大の学生でさえも、おかしな文様を入れてしまう者がいる。日本の入れ
墨は、外国人には魅力的に映るというのは聞いたことがある。しかし、この痛みに耐え
ることで「大人のしるし」と解釈する少数民族は数多いし、これは、いくら禁止しても、
無くなるものではないのではないか、と思われた。
中島さんが勿忘草を貴方に、を弾き始めて会はお開きになった。
いつまでも、いつまでも、こころのおくに、、、。
僕はいつの間にか、体のだるさは取れていた。
「藩先生」
僕は言った。僕も「大人のしるし」をしたいと思った。藩や、前述した小沢さんの生き方
を、僕にも分けてもらいたかった。それを、藩に打ち明けてみた。小さなものでいいから、
彫ってほしい、と告げた。僕は悪人になるのではない。藩のような、強さを分けてほしい。
その第一歩として。
藩は、自分なんか足元にも及ばないといったが、僕は勿忘草をひとつお願いした。小さな
ため息をついて、藩は、自分の店にぼくを連れて行った。道はところどころ段差があった
が、藩は平気だった。僕のほうが、手を貸すべきか迷うほどだ。
藩の店は、小さな一軒家で、特に看板も出していなかった。小さな部屋に通されて、机の上
に、右腕を置いた。
藩は道具を取り上げた。はじめは皮膚の上をプチプチ刺しているようであったが、何回かや
っていくとそれは熊蜂に代わった。藩は、彫りながら、之が手彫りというものだ、といった。
流行のタトゥーマシーンでは、和彫りの美しさは出ない、とも語った。そしてあまりの痛さ
に、声を出そうとすると、僕の右腕には、綺麗な勿忘草が描かれていた。

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