作品名:神社の石
作者:紀美子
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「うん、あのね、弥生。ケーキのことはべつにいいんだけど……」
 美樹が遊びに来ると宣言したときの、お母さんの反応は私の予想とはちがうものだった。私はちょっとあせって、アイロンをかけているお母さんの前に座った。
「えー、なに? だめなの? もうわたし、美樹にお母さんがケーキ作ってくれるって言っちゃったよ」
「そうじゃないんだけど」
 と、言って、お母さんはすこし考えこむような顔になり、それから、しかたなさそうに言葉を続けた。
「ねえ、弥生、あんた、美樹のお父さんに会ったことある?」
 私はぎくっとして、お母さんをまじまじと見た。いつもはのんびりとしたお母さんの顔は、皮膚が硬くなったようにこわばっていた。
「うん、美樹のところの遊び場で会ったよ。なんで?」
 お母さんはアイロンを台の上に置いて、スイッチを切った。お母さんが家事などを途中でやめるその仕草はとても真剣な話、たいていあまり楽しくない話のときの合図のようなもので、私はおなかの中が急に空っぽになったような気がした。
「お母さんは他の人から聞いた噂だけで、美樹のお父さんのことをどうこう言いたくないし、こんなことをあんたに言うのは嫌なんだけど……あのね、弥生、美樹のお父さんはあんまりいいお仕事をしてる人じゃないらしいのね。だからね、もし美樹のお父さんが遊びに連れて行ってくれるとか、家においでって言っても、ついて行かないでほしいの」
 自分の行動をあれこれ言われることに私はカッとなったが、同時に、お母さんの言うことには喜んで従うつもりだった。ささやかな10才のプライドをたもつため、もちろんそんな臆病な本心を打ち明ける気はなかったが。
 美樹のお父さんは、他の友だちのお父さんとはまったくちがうタイプの人だった。美樹の施設の遊び場にあらわれたとき、彼はちゃんとしたスーツ姿で施設の人にきちんとあいさつし、美樹に対しては、つねに笑顔でやさしげだと言ってもいいくらいだった。でも、私は一目見たときから彼がこわかった。すこしの乱れもなく整えられた髪、服の異様なほどぴたっとした感じ、ぜったいにつまづいたり、なにかを落としたりしそうにない、流れるようなやわらかい身のこなし。彼は私がふだん会う大人たちとは、あまりにもかけはなれた人間だった。
 私がいちばん恐怖を感じたのは彼の目だった。するどくて、威圧的で、きらきらしているのに、どこかざらついていて、冷たかった。あの日、彼は緊張した様子の美樹が近づいてくると、にこにこしながら、彼女の肩に手をやり、ぐいっと自分の方に引き寄せた。それは娘とのスキンシップというような仕草とはほど遠いものだった。それは男の人がテーブルのタバコを乱暴に手に取るのに似ていた。
 私はわきあがってきたいやな感じをお母さんに気付かれないように、下を向いて答えた。
「美樹のお父さん、いそがしいから遊びに連れてってくれたりしないと思う。それに、家は遠いから遊びには行けないし」
「そう。じゃ、もしこれからそういうことを言われても、行かないってお母さんに約束してくれる?」
 私は小さい声で、うん、と答えた。それから、美樹とのつきあいのことをもっとなにか言われるかと思って、ドキドキしながら続きを待ったが、お母さんはそれきりその話は終わりというふうに、またアイロンを取り上げた。私は心の底からほっとして言った。
「じゃあ、明日、美樹が遊びに来てもいい?」
「いいわよ。それから、あんたが勝手にそういう予定にしちゃったみたいだから、ケーキも作ってあげる。そういえば、あさってってお休みよね? 美樹ちゃんがよかったら、遊びに来るついでにうちに泊まる? お母さんが晶子さんに話してあげるけど」
「えー、ほんと? いいの?」
「美樹ちゃんならいつでも歓迎よ。お母さんのご飯、おいしいって言ってくれる唯一の人だからね。そうだ、どうせお父さん遅いし、ご飯食べてからみんなで映画でも借りて来て見ようか。お母さんもちょっとは仲間に入れてくれるでしょ?」
 おっとりとからかうような口調はもういつものお母さんだった。私はわざと顔をしかめて答えた。
「ええー、どうしようかなー?」
「あっそう。そういうこと言うんだったら、ケーキ作るのやめようかなあ。あ〜あ、せっかく、お母さん、美樹ちゃんの好きなパウンドケーキ焼こうと思ってたのに」
 私は笑って、お母さんに飛びついていった。
「うそ、うそ。お母さんも仲間に入れてあげるから、ケーキ焼いて。私も手伝うから」
「はい、はい。じゃあ今から美樹ちゃんに電話して、明日泊まれるかどうか聞いてきて。晶子さんがいたらお母さん代わるから」
「はーい」
 私はすぐに立ち上がって、電話まで走っていった。美樹は電話の向こうではずんだ声を出して、おばちゃんにありがとうって言っといて、とちょっと照れくさそうに言った。私は寝るときの服を貸すことを美樹に約束し、施設の細かいことを取り仕切っている晶子さんを呼んでもらった。お母さんと電話を代わり、私はでたらめなダンスのステップをふみながら、自分の部屋にもどった。
 鳥居の石を落としたことや、美樹のお父さんのことで小さくひびが入っていた私の平和な日常は、それでまったく元通りになった。結局、中学に行くとか、大人になるとかいうのはずっと先の話で、親友が泊まりに来て、大好きなお母さんがいる家でみんなで楽しくすごすことを考えると、そんな将来は永遠に未来のままだとしか思えなかった。
 だが、楽しいだけのはずのその日がやってきたとき、私は思ったよりもずっと早く、生涯で唯一の親友と別れなくてはならないことを知った。
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