作品名:海邪履水魚
作者:上山環三
← 前の回 次の回 → ■ 目次
「先生、あそこ――!」
別の生徒が指差す方向、またもやプールの角の水面に、黒い影が点々と見える。それを他の生徒も目にし、その場の緊張が異様に高まる。
影は、かなりのスピードで川口の方へ向かってくる。
「先生!」
誰かが声を上げた。意を決した川口が額にあったゴーグルを下ろし、水の中へ潜ったからだ。生徒の視線が川口と、黒い影に注がれる。川口の体に比べて、影の方は比べるほどもない。
そして――、皆が固唾を飲んで見守る中、影は川口の前で急カーブし――それを川口がつかもうとしたのが分かった――、彼の側をすり抜けて行ってしまう――。
ややあって、川口が水面からザブリと顔を出した。ゴーグルを上げると、困ったなと言う表情が覗える。強張った生徒の顔とは対照的だ。そして、彼は濡れた髪の毛をかき上げながら教え子に向かって口を開く。
「みんな聞いてくれ! あれは魚だ・・・・!」
生徒がどよめいた。
「誰かがここに放したんだろう。とにかく鯉か何かだから、みんな安心しろー!」
川口はそう言うとプールから上がる。頭のゴーグルをはずしながら彼は愚痴をこぼす。「ったく、誰だよ、プールに魚なんか入れた奴ぁ・・・・」
しかし、さすがに生徒は誰もプールに入ろうとしない。さっきまでの騒々しさとは打って変わって静寂が辺りを包む。そしてついに一人の生徒が彼の前に出た。
「先生――。私たち、魚となんか泳ぎたくありません」
すると次々に「私もです」と、名乗りをあげる生徒が出始めた。それはすぐにほとんど全員の生徒に広まり、結局、川口は今日の授業をこれ以上続ける事を断念せざるを得なくなってしまったのである。
「分かった分かった。――おまえら騒ぐな。今日はこれで終わりにするから・・・・!」
スタート台に追いやられて、川口は慌てて声を上げた。
「やったー!」
すぐに生徒から歓声が沸き上がる。川口はそれを見て、教え子の身代わりの速さに大きなため息を吐いた。
「ありがとうございましたー」
もちろん生徒はそんな川口の嘆きなど全く気にしていない様子で、黄色い声を出す。
「あぁ、お前らまだ授業中だから静かに戻れよ!」
「は〜い」
川口の投げ遣りな言葉に、生徒たちは調子よく返事すると、そのままのボリュームでさっさと引き上げてしまった。
それにしても・・・・、タチの悪い悪戯だ。
川口は振り替える。
水面はキラキラと光を反射して、それこそ川口を遊泳に誘っているかのようにも思える。その、魅惑のプールの下で、潜水艦のような黒い魚が我が物顔で泳いでいるのだ。魚に罪はないが、プールを自分の縄張りだとでも言いたいのだろうか! そんな漫画(?)のような話で、授業を妨害されたのではかなわない――!
「川口センセ」
突然声を掛けられ、もうプールサイドには誰も残ってはいないだろうと思っていた川口は、少々びっくりして後ろを振り返った。「あぁ、剣野か――。何だ? どうしたんだ?」
そこにいた舞を見て、彼は笑顔を見せる。
「いえ、アノ――大した事じゃないんですケド」
「何だよ。言ってみろ」
その言葉に、彼女は頷き
「はい。さっきの魚なんですけど――」
プールの水面を指して
「ホントに魚でしたか・・・・?」
と、遠慮がちに尋ねる。普段はもう少しストレートに物事を喋る方なのだが質問が質問なのでついそんな口調になってしまった・・・・。案の定、聞かれた川口は一瞬虚を衝かれたような表情を見せて、舞の質問を笑い飛ばした。
「おいおい剣野、何言ってるんだ?」
「はぁ・・・・」
「魚だよ、魚」
川口はそう繰り返すと舞の肩にポンと手を置き
「何、考えてんだか知らないが、そこら辺の川にでもいそうな魚だったぞー。ま、後で三岡先生にでも言って、釣り上げてもらうか」
と、笑いながらプールを出ていった。
しばらく舞はその後ろ姿を見送って、視線を水面へと戻した。
――嫌な胸騒ぎがする。
そう。涼子が悲鳴を上げる直前に、舞は妖気のようなものを感じ取っていた。それは夏の日差しに照らされたプールには全く似つかわしくない、陰鬱な気の気配だった。
一体、あれは何だったのだろう・・・・。
クリアブルーの水面を舞は目を細めて見つめた。生徒がいなくなって静かになったこの水面のどこかで、先程の黒い魚が悠々と泳いでいるのだろうか。
舞はスタート台の上に立って魚を探してみようかとも思ったが、結局それは止めにした。もう少し安全な(ここまで来れば水嫌いもたいしたものである。いっそ恐怖症とでも言った方が適切かもしれない)プールサイドからプール全体を見渡す事にする。
もっとも、少しの間神経を集中させて周囲を探っていたが、特に何も見つける事はできなかった。炎天下のプールに似つかわしくない妖気も、あの黒い魚も、どこかに掻き消えてしまっている。要するに、舞の目の前にあるのはただのプール以外の、何物でもなかった。
「・・・・舞ぃ?」
――と、涼子の澄んだ声が聞こえた。
「何だ、そこにいたの? 探したよ」
「ア、ごめん・・・・」
すぐに調子良く舞は手を合わした。先程の事と言いこの辺の身代わりの良さは今時の女子高校生である。涼子はその様子にニヤリと笑うと、しかし、すぐに彼女は真顔になって舞の横に立ち並んだ。
「・・・・気味悪いよね?」
涼子はプールを見る。
「え――、うん」
「あんな真っ黒の魚なんて、いるのかな?」
そのままの視線で何気なく涼子は喋っている。
それは――、彼女たちの思い込みだろう。水の上から見た為、しかも泳いでいたのでそう見えたに違いない。捕まえてみれば分かる事だが、舞自身はいわゆる真鯉のような――黒に近い濃い緑――色をしているのではないかと思っている。が、それは色についてであって、魚が、どこにでもいるような普通の魚だとは考えていない。
そんな事を考えながら、舞は友人の横顔に目をやる。
「あ!」
まさにその時、涼子が声を上げた。と同時に、舞は再びゾクリとする妖気を感じる。
「――!」
涼子はプールのほぼ真ん中にある、排水溝を凝視していた。鉄の格子がはめられた、どこのプールにでもあるような排水溝だ。
「今、あの魚が――」
そう言って涼子は言葉を飲んだ。
排水溝に魚影は既にない。
そして、舞は確信する。何かがこのプールに起きようとしている。どこの誰だか知らないが、ここでよからぬ事を企んでいる輩がいる・・・・!
「もう行こう」
できるだけ涼子が脅えないようにそう言うと、舞は彼女の手を引いてプールを後にした・・・・。
← 前の回 次の回 → ■ 目次
Novel Collectionsトップページ