作品名:平安遥か(T)万葉の人々
作者:ゲン ヒデ
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        市原王邸の宴会
 市原王は、山部の父親と同じ天智天皇系の傍流皇族である。
 今30歳位か。昔は近所同士であり、兄弟がいないので、山部を弟のように可愛がっていた。国家的大事業の東大寺大仏建立の総責任者(造東大寺司長官)を、ここ7年間勤めている。
 田村第(紫微令邸)の西隣の邸宅には、東大寺へ納める小規模な品の製造の作業所も設けられている。
 また邸宅の書庫には、大仏殿建立のための土木、冶金、建築、工芸美術など、当時の最先端の科学技術の書物が集められている。遥かギリシャ伝来まである。
 工人達が調べ者をするための便のためであるが、読書が好きな山部少年を、自由に書庫に出入りさせていた。
 多くの書物を広げて、少年が、大人の市原王に、科学技術を説き明かして、理解させることもあった。
 なにせ、大仏造営の総指揮者の立場では、諸方との打ち合わせで、あまりにも忙しく、全ての知識を理解するには、時間がなかった。
 かみ砕いた山部の説明でも、良く役にたった。

 今、市原王邸では、陸奥からの待望の黄金の手当が出来たので、大仏渡金の成功を祈って、責任者達が祝宴を開いている。
 が厨房の姉の手伝いをして、ぶらっと宴席に入ったこの少年の言葉で、座が白けてしまう。
 にこやかに周囲の者と酒を酌み交わしている、大仏師、国中真麻呂に近づき
「あのう、大仏師さま、確か、渡金は水銀に黄金を溶かして、その液体を大仏に塗り、炭火で炙って水銀を蒸発させて、金を残して大仏を黄金色に輝かせるのでしょう」 「良くお知りだ、我ら百済の者の希望の星、山部さまはお若いのに博学だ。あなた様がご聡明にお育ちになったのを、亡き我が父が知ったらよろこぶでしょうなあ」

【祖父の和乙継(やまとのおとつぐ)が引き合わせた人物のなかに、大仏鋳造の最高指導者、大仏師国中真麻呂の父親がいたのである】

「そのお父上様が、小さな仏像の渡金作業をなさっているとき伺ったら、『水銀の蒸気を吸うと、体が不調になり、やがて早死にする、だから吸わないで作業する工夫が難しいのです。すまぬが、和子様は見学しないでお帰り願いたい』とお御諭しなさったのですが、廬舎那仏の渡金には、どんな工夫で、水銀の毒気を防ぐのですか。吸わないように風で飛ばすにしても、巨大なふいごなどありえないし、大仏殿内部で水銀の毒気が充満しないよう、どうなされるのでしょうか」
 大仏師は絶句した。まだ解決できない難問が立ちはだかっているのを、忘れていたのだ。
 周囲の者達もひそひそ話し合い、ため息を吐きだした。

【当時の金の鍍金は、当然、電気メッキ法はなく、水銀の中に金を溶かし、それを素材の金属に塗り、火で炙って水銀を蒸発させて、表面に金を残すアマルガム法である。これには有害な水銀蒸気が発生するので、現代では、この方法にはガスマスクを付けてするとか】 

「まいりましたな、あーあ、山部さまの御指摘で、酔いが醒めた。市原王さま聞かれましたか。解決法は御蔵書のどれかにありませんかなあ」
「私より、山部君の方が詳しいよ。ほとんど読破しているはずだ」
「えー、あれだけの多量の書物の全部を…。で、山部さま、参考になるものは有りましたか」
「読み返し探しましたが、何処にも載っていませんでした」
「弱りましたなあ、大仏開眼の日までに、お顔だけでも渡金しなければならぬのに…」
 大仏師つぶやく。
「最新の唐の知識にないかなあ」
 山部の声が弾む。
「そうだ、吉備真備先生が、知っておられるかも、唐であらゆる知識を仕入れてこられた筈ですから。義兄上、教えを請いに行きますから、紹介状を書いてくださいよ。」


      吉備真備邸
 翌日、山部は吉備真備邸を訪れた。訳を言って大学寮は休みにした。
 昼である。少年が母屋の玄関の書生に、造東大寺司長官市原王の紹介状(木簡)を渡す。
 しばらくして吉備真備自身が現れた。唐への渡航の準備で、在宅中であった。
 山部を見て、ビックリした顔をする。
「君は山部君じゃないか。確か白壁王のご長男だと聞いたが。それが、どうして大仏の渡金技術の調べの役をしているのかね、まあ、とにかく中で聞こう」
 母屋では抹茶と柿が出された。茶は当時日本では飲む習慣はなかった。唐から持ち帰った茶を栽培しているのであろうか。不思議そうに抹茶を味わいながら、ぽつりぽつりと話し出す。
「ほう、姉上が市原王の嫁になられたのか。それで義兄のために調べ物をしておられるのか」

 山部少年が水銀の毒の話をしだす。
 ふんふんと相づちをうちながら、山部の話を聞いていた真備は、1口茶を飲み言う。
「なるほど、水銀の毒気か。知識としては聞きかじったが、私は詳しくは学んでおらんが…。うーん、いや待てよ、確か、長安の古書市で雑多な本を買いあさったが、その中に鋳造技術の本とか草木石の薬の本があったかもしれぬ。九州への左遷左遷で、帰ってこられず、調べていないが…」

 真備は、母屋の近くの書庫に、山部を案内した。校倉造りで高床式の建物である。
 階段を上り中にはいると、膨大な書物を入れた木箱が、棚に整然と積まれている。
 現代の冊子形式の本はまだ存在してなく、巻物の木箱である。
 窓の前に唐風の机と椅子がある。山部を座らせて、真備は諸方の捜し物をする。
 取り出した十数本の巻物を机に置き、一緒に巻物を広げて調べだす。
 なかなか見つからない。7番目の書物の時
「山部君、この文章はどうだね」読むと、濁り酒を炭に通すと雑分が炭に濾されて透明な酒になる。と書かれていた。
「先生、炭が濁りを取り除くとしたら、水銀の蒸気も取り除けるのでは」
「うーん。残りの書物も当たってみよう」さらに調べは続く。
「これはどうかな『硫黄気(硫化ガス)は毒性あり、炭をくわえて鼻を閉じて口で息をすれば害を防ぐ』硫黄と水銀の違いが問題だが」
「先生、この記述は参考になりませんか。『辰砂(朱砂)は硫黄と水銀より成り、熱せば硫黄気と水銀に分かれ、水銀の気を硫黄に当てると辰砂に戻る』」
「ほう、当たり前のことだが、これも参考になるかもしれぬ」
「炭と硫黄のどちらか、あるいは両方を、布の袋に入れて、息が出来る頬被りにするのはどうでしょうか」なんと11世紀後にできるガスマスクの原理を考えついた。
 まだ調べは続く。
「そうだなあ、炭は竹炭がいいかもしれぬ。この書には竹炭は気泡が多く、空気を通しやすいと書いてあるが」
「それも、役立ちそうですねえ」
 やがて調べは終わり、山部は木簡にそれらの史料を写す。横で真備が見守っている。
 誰かが上がってきた。若い女性である。
「お父様、しばらく。ここに居られたの、探したわよ」
「おう、由利か、帰ってきたのか、休みを貰えたのか」
 娘は不審そうに少年を見、そっと耳元で言う。
「いえ、お忍びのお供、あのお方が、渡航前の父上から『貞観政要』の講義を受けたいとの思い立たれたの」
「来られてるのか!」孝謙女帝のことである。
「ええ、母屋の御座所でお待ちですわ」
「こりゃいかん、ああ、山部君、大事な来客があるので戻らねばならぬ。あとは自由に使ってくれ」
 ふと、考え
「すまぬが、由利『貞観政要』を探してくれ。確か、あの場所にある。持ってきてくれ」
 慌てて出ていく父をみて
「ほほほ、あわてなくてもねえ。えーと、あなた様はどなた様 」
「お邪魔しています。私は白壁王の長男、山部といいます。大仏の渡金で出る水銀蒸気の害の事で、教えを受けていました。書き写しはもう終わりましたので、すぐ退散します」
「ごゆっくりしてくださいね。白壁王様に大きなお子がおられたのねえ、お年は」
「14歳です」由利はなんだ、自分より4歳年下かと思う。
「歳より大人びているわねえ。ああ、のんびり話し込んでいられないわ。失礼するわ。本を探さなくては、貞観政要、貞観政要…」
 父に示された場所の巻物の木箱を探す。なかなか見つからない。
 帰り支度をしていた山部が、探すのを手伝い始める。
「『貞観政要』は太宗李世民と臣下との為政の問答だから、分類は、『韓非子』と同じ処では…。在った!ここに在りましたよ」
 真備の示した処の隣から、見つけだした木箱を由利に渡す。
「まあ、お父様ったら間違えて」
 木箱を机に置き、ぎゅっと、山部の両手を包み
「ありがとうごさいます。山部王さま」
 山部、顔を真っ赤にする。
 百済系の心得として母、新笠は早熟な色恋ざたはせぬよう、きつく躾ていたので、山部はまだ女を知らない。ウブなのだ。手まで震えだした。
 あらと思った由利は、悪戯心が起こり、山部を抱きしめる。間近の悪戯っぽい乙女の笑顔と、甘い娘の体臭まで感じ、山部ぼうっとする。
 と、突然、外から真備の声がする。
「おい、本は見つかったか」
 あわてて由利、手を放す。
「降りましょうか」由利が言う。
「あ、はい」少年は夢見心地から醒めだした。

 この娘、由利は孝謙女帝の侍女である。
 後、吉備真備は娘に、山部を婿にと勧めた。
 が、由利は相手が年下だし、侍女として出世したいからと、断ってしまったのである。


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